欲望は変化する。<私>がアルベルチーヌの不在がもたらす苦痛の忘却を欲望するにせよ、その方法は決して一つだとは限らない。むしろ無限に出現してくる。なぜなら時間はもっと多くのトランス(横断的)欲望を生産するからである。実際の方法として、忘却のための無限の系列を出現させる。
(1)「われわれは欲望に応じてものごとを変えることはできないが、われわれの欲望はすこしずつ変わるという」こと。
(2)「なんとしても乗り越えたいと願っていた障害も、それを乗り越えることはできずとも、人生はそれを迂回して通り越えさせてくれる」ということ。
「人は自分の欲望に応じて周囲のものごとを変更できるものと信じている。そう信じるのは、それ以外に都合のいい解決策がなにひとつ見当たらないからである。だがきわめて頻繁に生じる解決策、これまた都合のいい解決策には想い至らない。つまり、われわれは欲望に応じてものごとを変えることはできないが、われわれの欲望はすこしずつ変わるという解決策である。耐えがたいという理由で変更したいと願っていた状況も、われわれのほうからそれに無関心になる。なんとしても乗り越えたいと願っていた障害も、それを乗り越えることはできずとも、人生はそれを迂回して通り越えさせてくれる。そうして過去の遠いかなたを振り返ってみると、その障害はようやく見えるか見えないかというほどに小さくなっているのだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.86~87」岩波文庫 二〇一七年)
忘却の欲望にしても、その方法の実践に当たって、一方通行の道がたった一つしかないわけではまるでない。逆にトランス(横断的)な無数の交通路が複雑に交わり合って流通していることがわかるだろう。
「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)
二つの<土地の名>の横断的交通とその無限の可能性。
ーーーにもかかわらず。
近代日本の場合、「われわれの欲望はすこしずつ変わる」ことを直視できず<待つ>こと一つしなかった。ガダルカナル撤退が始まってなおそれを<見ない><見せない>傲慢不遜な態度を貫き続けた。
現代日本の場合、史上空前の敗北に直面し、くじけきった。民主主義とは何か。世界中から「学び直し」を要請された。それは確かに敗北ではあったものの、民主主義の学び直しという意味では大変いいきっかけにもなった。猶予を与えられた。そして戦前戦中を二度も三度も「振り返ってみ」た。そのはずだった。ところがしかし、ここ数年で急速に<見ない><忘れ去る>方向へ加速し出した。
<見ない>方向への加速について。
昨日、江川紹子らが安倍元首相銃撃事件にともなう山上被告「公判前整理手続き」公開を要望した。なぜ「山上被告」<と>「公判前整理手続き」なのか。ただ単なるカルト問題だけが問題ではないからだろうと思われる。もっとも、江川紹子らは法に則って準備を進めていくだろう。しかしその過程で避けて通ることのできない問題が、ただ単なるカルト問題だけではあり得ない問題が、あぶり出されてくる。少なくとも触れないわけにはいかない。カルトと安倍元首相との関係について高原到はいう。
「選挙協力を得るため。これがいちおうの答だ。だがこの答は、問いの重大さを愚弄している。統一教会関係の票は八万ほどとされる。憲政史上最長の首相在任期間を誇る大物政治家が、自らの政治的核心であるナショナリズムを、長期にわたる国民からの重い負託を、そしておのれのたったひとつしかない命を、たかだか八万票とひきかえに売りわたせるものだろうか?
おそらくここには、安倍個人を超えて連綿とつづく暗渠(あんきょ)がある。敗戦後の日本の歴史を歪(ひず)ませている息の長い倒錯がある。ーーーひと言でいおう。《安倍元首相は、『復讐』という情念がはらむ激しさと執拗さを『ナメて』いたのだ》。
さきに、政治家安倍晋三を衝き動かしたのは、祖父の仇をとるという復讐心だと述べた。じっさい安倍は、敵/味方を峻別し、敵をとことん攻撃するという分断的な政治手法を好んで採用することで、親安部と反安倍の双方にけわしい復讐心を植えつけた。だが、その安倍ですら甘く見ていたのだ。侵略戦争と植民地支配の過去が生みだした復讐心を。そしてその復讐心の標的となって家庭を粉砕され、『反人間』として社会の底辺で生きることを余儀なくされた者の復讐心を」(高原到「復讐戦のかなたへ」『群像・2023・05・P.236』講談社 二〇二三年)
銃撃した側もされた側も、二人とも、怖ろしいくらいに「家」という観念に取り憑かれてきた。踏みにじった側、踏みにじられた側、踏みにじりつつ踏みにじられつつもある多くの人々。それは今の日本だけで完結し得る問題では到底ない。東アジアにやってきた近代の黎明から、長い戦前も長い戦後をも含め、その間に引かれている境界線、一九四五年という切断の線を、見ないわけにはいかないだろうと思うのである。
「負の連鎖」はもうやめてほしいし、ますます全体主義的になってきた今の日本もどうかと。今朝生まれたばかりの子どもたちにとって、いったいこの国はどんな未来をもたらすのだろう。いま東アジアを覆い尽くしつつある「負の連鎖」を、そのままごっそり相続させるばかりか、なおいっそう重い負荷を背負わせて、いいのかどうか。相続させたまま上の世代はどんどんあの世へおさらばしていく。それは違うだろうと思う。