アルベルチーヌは<私>に「激しい不安」を抱かせる。ところがアルベルチーヌ自身は「この不安のなかで取るに足りぬ位置しか占めていない」。
「われわれの激しい不安の元凶となったはずの女性が、この不安のなかで取るに足りぬ位置しか占めていないことは、なんらかの象徴や真実を示しているのかもしれない。実際、この不安のなかで当の女性自身は、感動や不安の全過程においてなんの責任もなく、その感動や不安は、当の女性にまつわる多くの偶然がかつてわれわれに味わせたもので、それが習慣によって当の女性に結びつけられたものにすぎないからである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.50~51」岩波文庫 二〇一七年)
なぜこのようなことが起こるのか。というより、常にこのような取り違えを起こしているのか。第一にすべての人間は、次の条件のもとでしか対象を見ることしかできないという桎梏が生存の条件として根底にあるからである。
「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
第二に「習慣」の枠組みによる一般化と日常化とがある。一度習慣化され一般化されてしまえばもうそれは何かあらかじめ絶対的なものであったかのように振る舞う。だが、そうではないとプルーストはいう。習慣は絶対的なものではまるでなく、置き換えの利く一時的な桎梏に過ぎない。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
そうすることで始めて見えてくるものがある。見るということ、見出すということは、気づきであり発見なのだが、多くの人間はいつも逆方向へ歩みを進めていることに気が付かない。そして錯覚する。すると、注意深く事態の推移を見ている人々の目には次のような疑問が湧く。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.44」河出書房新社 一九八六年)
大きな選挙の時は可視化されることもあるにはあるが、さほど大きな選挙でない場合にはほとんど可視化されることがなく、なおのことふだんは可視化されないよう厳重にマス-メディアが監視管理=誘導操作しているおぞましい事情。
なぜ「ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦う」ことを、「《欲する》」のか。
ところで昨日、「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.72~125』講談社 二〇二三年)について述べた。二〇〇〇年以降の大江作品についてのフォローはないものかと探していたら蓮實重彦の「追悼」が目に止まり、一部列挙した。
(1)「ごく例外的ながら、ここで国籍と性別についてひとまず触れておかざるをえない。というのも、現在の時点で読む価値のある大江論の大半は、まぎれもなく日本国籍の世代を異にする女性たちによって書かれたものだからである」(蓮實重彦「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.110』講談社 二〇二三年)
(2)「なぜ、女性たちばかりが、いま、かくも詳細に大江を論じ続けることになったのか。それには、大江の読者の質の変化ともいうべきものが深くかかわっているように思う」(蓮實重彦「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.110』講談社 二〇二三年)
(3)「問題は、二十一世紀に入ってから書かれた大江の作品で、多くの女性の登場人物が、饒舌さとはおよそ異なる真摯で雄弁な言葉遣いで語る主体となっているという現実にほかならない」(蓮實重彦「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.112』講談社 二〇二三年)
これはたいへん歓迎すべきことだと思う。と同時に、それとは別に柄谷行人や三浦雅士が指摘しているもう一つ重大な古くからのテーマがある。大江健三郎では「柳田國男、フォークナー、ラテンアメリカ」ということになるだろう。近代と民俗学。近代文学の終焉とともに片付けておかねばならない問題なのは確かだ。
さらにジェンダーについて、とりわけLGBT理解について、フェミニズム文学の第一人者と呼ばれる女性作家が今や露骨なトランスヘイトに走っているというような政治性の高い劣悪な現状を、文学はどう受け止め変容させていくことができるか。近代文学の終わりは近代文学のやり直しを、もっとも、新しい環境のもとで、近代文学というカテゴリーからの離脱ととも始めることができるはずなのだが。