白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・タマ闘病録14

2023年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

タマ闘病録14

 

二〇二三年四月二十八日。投薬三十四日目。

 

未明早朝とも便通なし。

 

午前九時三十分頃、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を22グラム程度摂取。

 

その後しばらくして小便。色は一貫して健康。これといった内臓の変調があるようには見えない。ところが体力低下はさすがに目立つ。

 

水分摂取するもほんの僅か。水飲み容器は十五年以上ずっと使ってきた陶器の器。百円均一で売っている野菜やフルーツを入れる小鉢でずいぶん慣れ親しんでいるもの。その縁に顎を乗せ、水を飲むわけでもなくじっとしたりしている。

 

横に置いてある餌皿も百円均一で売っている平皿で十五年以上ずっと愛用してきた。同じ平皿はもう一つあり、治療薬をスプーンで押し砕き水で溶いてシリンジに入れるための容器もこれで間に合う。いつものように早朝、ちゅ~るを新しく1本盛ってみたが一度ぺろりと舐めたきり。食べるとまではいかない。

 

小鉢と平皿が置いてあるトレーの横でうずくまっている、かと思えば、こたつの下で横たわっている。とりわけじっとうずくまっている様子を見ると「もう体力の限界」を訴えかけられているようで、飼い主の側がまいりそうになる。

 

午後一時三十分頃、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を22グラム程度摂取。

 

日差しが穏やかな日中、日向ぼっこ。途中から飼い主の布団の上へ移動。さらにトイレで小便。

 

午後五時三十分頃、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を22グラム程度摂取。

 

午後九時頃、大便あり。下痢だが中に細長い軟便混じり。

 

午後九時三十分頃、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を22グラム程度摂取。これで一日四回に分けて計88グラム摂取。一日当たり必要栄養分の半分以上摂取は初めて。

 

写真は食事後、日向ぼっこ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて389

2023年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は87パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

午前四時五十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.28)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.28)

 

二〇二三年四月二十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21・<私>のリビドー備給が見せるフェティシズムの無限の系列

2023年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌとの思い出を思い出すとアルベルチーヌにまつわる苦痛もともに蘇る。思い出すことは苦痛を欲望することだ。一方、「ずいぶん前からアルベルチーヌの魅力がつぎからつぎへとさまざまな対象へ乗り移った結果、それらの対象はしまいにはアルベルチーヌからきわめて遠いものになり果て」ていた。

 

「私はアルベルチーヌの出奔に朝から晩までたえず苦しんでいたが、とはいえそれは私がアルベルチーヌのことばかり考えていたことを意味しない。一方では、ずいぶん前からアルベルチーヌの魅力がつぎからつぎへとさまざまな対象へ乗り移った結果、それらの対象はしまいにはアルベルチーヌからきわめて遠いものになり果て、にもかかわらずやはりアルベルチーヌから与えられた同じ心の昂りの磁気を相変わらず帯びていたから、そんな対象のどれかが、ふとアンカルヴィルとか、ヴェルデュラン家とか、レアの新たな役割とかを想いうかべさせると、私は苦痛の大波に襲われた」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.116」岩波文庫 二〇一七年)

 

リビドー備給の対象は常に置き換えられていく。一定不変だとはまったく限らない。<私>がアルベルチーヌに向けていたリビドー備給は「つぎからつぎへとさまざまな対象へ乗り移っ」ていく。どんどん転移する。「しまいにはアルベルチーヌからきわめて遠いものになり果て」る。アルベルチーヌが使っていたピアノ、椅子など、人間の姿とは似ても似つかない部屋の家具調度品がアルベルチーヌと等価性を帯びて見えてくる。無数のフェティシズムの系列が出現する。

 

さらにかつてアルベルチーヌと関係があり<私>に衝撃を与えた土地の名や人物名も、他人は知るよしもない特異なフェティシズムの対象になる。ここでは三つの名が上げられている。

 

(1)「アンカルヴィル」。ローカル鉄道沿いの娯楽施設がある土地の名。アルベルチーヌの同性愛疑惑が発覚した場所。

 

「『そうですね、だが娘にこんな習慣を身につけさせているなんて、親御さんもずいぶん軽率ですなあ。私なら、むろんこんなところへ娘を来させたりしません。でも、みな美人でしょうか?顔立ちがよくわからんが。ほら、ご覧なさい』と、アルベルチーヌとアンドレがくっついてゆっくりワルツを踊っているのを示して言い添える、『鼻メガネを忘れてきたんでよく見えんのですが、あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ。あまり知られていませんが、女性はなによりも乳房で快楽を感じるものなんです。ほら、ふたりの乳房がぴったりとくっついてるでしょう』。たしかにアンドレとアルベルチーヌの乳房は、それまでずっと密着したままであったーーーそのときアンドレがなにかひと言アルベルチーヌにささやき、アルベルチーヌは、さきほど私が聞いたのと同様の、身体の奥から出てきたような、なんとも刺激的な笑い声をあげた。しかし今やその声が私にかき立てた昂奮は、ことさら耐えがたいものになった。アルベルチーヌがどうやらその声で、密かにおぼえた官能の震えをアンドレに教え、それを確認させたように感じられたからだ。その笑い声は、得体の知れぬ祝宴の開始ないし終焉を告げる和音のように響いたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.434~435」岩波文庫 二〇一五年)

 

(2)「ヴェルデュラン家」。ヴェルデュラン夫人のサロンにはたいへん多くの人間が集まる、というより、星の数ほどもある多様な性(今でいうLGBT)が群れをなして集結する、その場所の名。

 

「私は『どうして見抜けなかったのか?』と述べた。しかし私はバルベックで最初の日からそのことを見抜いていたのではないだろうか?アルベルチーヌは、肉体という外皮の下に数多くの隠れた存在、つまり、いまだケースに収められたままの一組のトランプとか閉めきった大聖堂やこれから足を踏み入れる劇場とか以上というわけではないが、大勢の入れ替わる群衆以上の多数の存在が息づいている、そんな娘のひとりだと見抜いていたのではないか。いや、そこには多数の存在ばかりではなく、その多数の存在をめぐる欲望や官能の想い出や激しい不安に駆られた探究さえ息づいている。バルベックで私が動揺を覚えることがなかったのは、自分がいつか見当違いの足跡をたどるはめになろうと想像だにしなかったからである。とはいえ、そのおかげで私にとってアルベルチーヌは、それほど多数の存在のみならず、その存在をめぐる多くの欲望や官能の想い出があふれんばかりに詰めこまれた充実した存在となったのだ。そしてある日アルベルチーヌから『ヴァントゥイユ嬢』と告げられた私は、いまやアルベルチーヌのガウンをはぎ取ってその肉体を見たいと願うのではなく、その肉体を通して、本人のさまざまな想い出や、間近にせまった熱烈な逢い引きが記されたメモ帳をのぞき見たいと願うありさまだった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.201~202」岩波文庫 二〇一六年)

 

(3)「レア」。もはや疑うことのできないアルベルチーヌのトランス(横断的)性愛嗜好。そのアルベルチーヌが「見ていないふりをしながら鏡に映るすがたをじっと見つめていたあのふたりの娘と親しい女優」の名。

 

「これはバルベックから帰ってこのかた、ようやくふさがりかけていたわが心の傷口の包帯がいきなり引きはがされたような衝撃と言うべきで、私の激しい不安は堰(せき)を切ってどっとあふれ出た。レアというのは、アルベルチーヌがある日の午後カジノで、見ていないふりをしながら鏡に映るすがたをじっと見つめていたあのふたりの娘と親しい女優なのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.324」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>のリビドー備給はアルベルチーヌと関係のあるすべての事物へ、それが人間であれただ単なる物であれまったく構わず、それこそフェティシズムの無限の系列、諸商品の無限の系列をなして、<切断/接続>=<離接>の運動を延々繰り返していく。