<私>は<私>の知らない男から贈り物を受け取っていた。「未知の男にたいする嫉妬」も苦痛であるには違いない。
それ以上に、ほかでもない「アルベルチーヌがそんなふうに平気で贈りものを受けとっていたこと」が、また異なる次元で<私>には耐えられない苦痛として覆い被さってくる。「未知の男にたいする嫉妬に加えて、アルベルチーヌがそんなふうに平気で贈りものを受けとっていたことが私には苦痛だった」と。
嫉妬の苦痛とアルベルチーヌの態度に対する苦痛とは別々の二つの苦痛である。前者は恋愛関係の中ではよくある、ありふれた苦痛なのだが、後者は必ずしも恋愛関係に限らない倫理的次元に属する苦痛だ。嫉妬するとかしないとかでなく、そもそも人格が問われる問題である。
その意味でアルベルチーヌは<倫理を知らない>という態度を明確に表明しているし、<倫理を欲望しない>という欲望に極めて忠実であろうとしているように見える。アルベルチーヌには嘘がないといえる。
もっとも、言葉の使い方は矛盾だらけだ。論理的でないしすぎに話題を逸らそうとする。<私>にすれば嘘ばかりだ。だがしかしアルベルチーヌが嘘つきに思えるのは、<私>がたった一つの倫理に縛り付けられている限りでしかない。アルベルチーヌが「逃げ去る女」になったのは<私>が行使する監視管理至上主義的な倫理なんてもうたくさんだという最後通牒にほかならない。
アルベルチーヌが言っているのは<私はあなたの家畜ではない>ということだ。愛する相手を家畜化しようと欲してばかりの手前勝手な人間の手元で四六時中いつも管理されているのはもうまっぴらだと。だからどんどん変身していく。貨幣のようにどんなものにでもたちまち変身できる存在としてずっと逃走し続ける。しかもアルベルチーヌの貨幣性は資本主義の制度的枠組みとは関係なく、はじめから制度を持たない、あくまでも外部へ超え出ていくことしか知らない無限の欲望として変容していく。アルベルチーヌは最初のバルベック滞在時、<私>の前に出現したときすでに外部だったのだ。いまごろ思い出してももう遅い。
「アルベルチーヌの嘘にたいする嫌悪と、未知の男にたいする嫉妬に加えて、アルベルチーヌがそんなふうに平気で贈りものを受けとっていたことが私には苦痛だった。たしかに私もそれ以上の贈りものをしていた。しかしわれわれは自分で囲っている女については、ほかの男たちからも囲われていると知らないうちは、その女を囲い物とは思わないものだ」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.113~114」岩波文庫 二〇一七年)
<私>は長いあいだアルベルチーヌを「囲い物」にしてきた。監視監禁管理するだけでなくアルベルチーヌが欲しいものは何でも買い与えてやってきた。とはいえ、愛する相手が「ほかの男たちからも囲われていると知らないうちは、その女を囲い物とは思わないものだ」。
さらに「お金があれば何でもできる」という考え方は途方もない大間違いだ、と気づくのがあまりにも遅い。簡単な例を上げてみる。
誰かが現金で二〇〇〇億ドルも三〇〇〇億ドルも用意してJPモルガンチェースや中国工商銀行とかけ合ったとしよう。だが資本主義そのものを買い取ることはできない。資本主義はびくともしない。相手がアルベルチーヌのような人間の場合、結果はなおさら検討はずれ、的外れへと、話はどんどんずれていくほかない。資本主義的公理系にさえ回収され得ない<未知の女>。
売買とはまるで別次元。決済も監査も知らないし把握も捕縛もできない謎に満ちた<未知の女>。比類ない速度で絶え間なく組み換えられ組み合わせられていく無数の諸断片のモザイク。