白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<私>の「脳裏は落書きされた壁のごとく無数に書きつけられた愛する人の名前で覆い尽くされる」

2023年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>にとってアルベルチーヌはほとんど「名前」としてしか存在しない。ところが「名前」というものは何をするか。「脳裏に休みなく書きつけられてやむことはなかった」。頭の中がアルベルチーヌという「名前」で一杯になる。

 

「人がその名前を心中では唱えても口には出さないとき、まるで心中に記された名前の傷痕が脳裏に残されたかのように、ついに脳裏は落書きされた壁のごとく無数に書きつけられた愛する人の名前で覆い尽くされるかと思われる。人は幸福であるかぎり愛する人の名前をたえず思考のなかに書きつけるし、不幸になればなおそうする」。<私>はあたかも強迫神経症を患ったかのようにひたすら「名前」を反復するばかりなのだ。

 

「アルベルチーヌその人はどうかといえば、私の内心にほとんど名前という形でしか存在していなかった。その名前は、たまに夢から醒めたように途切れることはあったが、脳裏に休みなく書きつけられてやむことはなかった。かりに私が考えていることを大声で口にしたら、アルベルチーヌの名前を休みなくくり返したはずで、そんな戯言(ざれごと)は、まるで前世で男だったときに愛していた女性の名前を叫びつづける神話の小鳥に私自身が変身させられたかのように、単調で偏狭なものになっていただろう。人がその名前を心中では唱えても口には出さないとき、まるで心中に記された名前の傷痕が脳裏に残されたかのように、ついに脳裏は落書きされた壁のごとく無数に書きつけられた愛する人の名前で覆い尽くされるかと思われる。人は幸福であるかぎり愛する人の名前をたえず思考のなかに書きつけるし、不幸になればなおそうする。そしてすでに知っていること以上になにひとつもたらさないそんな名前をくり返し唱えたいという欲求にとらわれつづけては、しまいにはそれにも飽きてくる」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.49~50」岩波文庫 二〇一七年)

 

とはいえ「名前」の連鎖が「途切れることはあった」。間歇的であり、睡眠がその<間>であり、「名前」の増殖の前と後とを切断する。この間、人間の意識は解体されている。自分は何ものなのかを自分で知ることはまったくできない。

 

配送センターになった<私>が<私>を構成する諸断片へ宛てて「悲嘆」を梱包・配送することができたのは、諸断片が「一つの身体」としてとりあえずまとまった形を取っている間に限られていた。個々の断片はどれも親しい友人たちだということができるが、実にしばしば戦争し合っているかとおもえば、平和を分かち合ってもいる。<私>というものは、常に無数の諸断片へ微分化されうるからこそ、それら諸断片同士の絶えざる闘争/平和が、<私>という「一つの身体」の中で進行しており、「一つの身体」そのものを構成しており、その「一つの身体」を名指して仮に<私>と呼ばれることを請け負った諸運動に過ぎない。

 

また「前世で男だったときに愛していた女性の名前を叫びつづける神話の小鳥に私自身が変身させられたかのように」とある文章は、睡眠(切断)の前と後とで<私>は常に異なる、差異化される、という「変身」の比喩として注目すべきだろう。参照されているのはオウィディウス。

 

(1)「朝になった。家を出て、浜辺を目ざす。夫のいで立ちを見送ったあの場所へ、悲しい足取りを向ける。そのあたりを、行きつもどりつする。『ここで、あのひとが纜(ともづな)を解いたのだ。この岸で、別れのキスをしてくれたのに』ーーーこんな言葉が口をつく。この同じ場所をまのあたりにすると、あのときのことが思い出されてならない。沖のほうに目をやる。すると、遠くの海に、何だか人のからだらしいものが見えた。はじめは、何であるのかはっきりしなかったが、波に運ばれて、少し近寄ると、離れてはいても人体であることがはっきりしてきた。どこの誰かはわからなかったが、難船者だということで、その暗合に心を動かされた。そして、赤の他人に涙を注ぐかのように、こういった。『ああ、可哀そうに!いったい誰かしら?きっと奥さまもおありだろうに』。波に運ばれて、死体はいっそう近づいた。それを眺めれば眺めるほど、心の平静をなくしていった。とうとう、それは陸に接近し、何であるのかが、はっきり見分けられた。まさしく、夫だった。『あのひとだ!』と叫び、頬を、髪の毛を、着物を、いっせいにかき裂くと、ふるえる手をケユクスに向けて差し出しながら、こういった。『あなた、お可哀そうに!こんな姿で、こんな姿で、わたしのところへおもどりになったの?』。水ぎわに、人工の防波堤があって、打ち寄せる波の出鼻をくじき、水の攻勢を弱めている。アルキュオネは、ここへ跳び乗った。こんなことができたのが、不思議だった。いや、じつは、彼女は宙を飛んでいたのだ。たったいま生(は)えた翼で、軽やかな大気を打ちながら、海面をかすめ飛んでいるーーーそのあわれな鳥が彼女だったのだ。飛びながら、口に代わる細長い嘴(くちばし)から、いかにも悲しげな、嘆きにみちた鳴き声を発している。だが、すっかり血の気をなくした、ものいわぬ死体のところまで飛んで来ると、ま新しい翼で、愛する夫のからだをかきいだいて、甲斐もないながら、固い嘴で冷たい口づけを送った。ケユクスにそれがわかったのか、それとも、彼が顔を上げるように見えたのは揺れる波のせいだったのかーーーこれが、ひとびとには疑問だった。が、たしかに、ケユクスにはわかっていたのだ。そして、神々の同情を受けて、ふたりは鳥に変えられた」(オウィディウス「変身物語・下・巻十一・P.147~148」岩波文庫 一九八四年)

 

(2)「ある日のこと、このヘスペイエが父親の河の堤のに坐って、肩のうえに広げた髪を日に乾(ほ)していた。それを、アイサコスが見つけた。見られた妖精(ニンフ)は、やにわに逃げ出した。おびえた雌鹿が、茶褐色の狼から逃げてゆくようなふうでもあったし、あるいはまた、馴染みの池を遠く離れたあたりで、隼(はやぶさ)に不意を襲われた鴨が、この相手からのがれ去ろうとするさまにも似ていたろう。トロイアの若殿は、彼女を追いかけた。恋ごころをせきたてられて、快足を飛ばすが、恐怖にかられて逃げるほうも、同じく速かった。と、そのとき、草に隠れていた蛇が、逃げ去る乙女の足を、鉤(かぎ)なりの毒牙にかけたのだ。毒が、彼女の体内に残った。逃げ足がとまったかとおもうと、息が絶えていた。若者は、狂ったように、なきがらをかきいだいて、大声で叫んだ。『ぼくがきみを追いかけたのが、いけなかった!あれが、いけなかった!でも、こんなことになろうとは、おもいもしなかったのだ。こんな対価をはらってまで、きみをものにしようとすることはなかった。ぼくと蛇との両方が、きみを死なせたのだ。蛇は傷を、ぼくはそのきっかけを与えた。が、ぼくのほうが罪は深い。いっそ死んで、きみの死への償いとしよう』。こういって、きり立った絶壁にのぼった。その根もとは、打ちしぶく波に侵食されている。ここから、海に身を投げた。海の女神テテュスがこれをあわれみ、落ちて来る若者を柔らかく受けとめ、波に漂っているそのからだを、羽毛で覆った。死への願いは、こうして、果たされる機会を失ったのだ。恋に悩む若者は、腹を立てた。生きたくない者が生きることを強いられ、哀れな肉体を肉体を離脱しようと願っている霊魂が、それを許されないとは!彼は、肩に生えたばかりの翼で、高く舞い上がると、再度、海に向かって身を投げた。が、羽毛が、落下の勢いを弱める。アイサコスは、怒りに狂った。海中深く、真っさかさまにもぐってゆくと、いつまでも、死への道をさぐってやまなかった。焦がれる想いに、身はやせた。脚は、ひょろ長くなっている。頸も、むかしどおりに細長くて、頭と胴のあいだに距離ができている。海を好んでいて、いつもそこへもぐるところから、いまも潜水鳥と呼ばれているのだ」(オウィディウス「変身物語・下・巻十一・P.150~151」岩波文庫 一九八四年)

 

<私>には中心がない。いつも可動性として生きる。諸商品の無限の系列としてしか生きることができない。

 

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

 

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

 

この果てしなくつづく横断性はアルベルチーヌにこそふさわしいトランス(横断的)性愛だけでなく、ゲルマントとメゼグリーズとのトランス(横断的)交換性、トランス(横断的)流通性、リゾーム社会の到来をも物語るにふさわしいと考えられる。

 

だが<私>にはまだ通過していくべき過程が横たわっている。「名前をくり返し唱えたいという欲求にとらわれつづけては、しまいにはそれにも飽きてくる」。

 

「飽きる」ということ。アナログには飽きる。デジタルにも飽きる。とにかく人間は、不可解にも、自分が人間であることにも飽きてくる。或る価値体系に飽きる。別の価値体系へ移動する。別の価値体系にもいずれ飽きる。今度はさらなる別の価値体系を模索し始める。脱中心化の運動はいつまでも延々つづいていく。

 

さて。たった今、「追悼 大江健三郎」(『群像・2023・05・P.72~125』講談社 二〇二三年)に目を通したところだ。ふと思い出したのだが、始めて大江健三郎を読んだのはなぜか大学生になってから。最初期の短編集から入って気に入った。

 

世間一般のイメージはどうかとか、そういうことはほとんど考えずに読んでいたわけだが、ひと通り読んで顔を上げてみると、大江健三郎に対するイメージは、自分が読んで持ったイメージと違っていることに気づいた。中期の代表作と呼ばれている「個人的な体験」以降も、個人的に面白いと感じた「同時代ゲーム」以降も、さらにノーベル賞受賞以降も、どうも、主に小説家や評論家に読まれてきた小説家というイメージが蔓延しているように感じた。

 

一方、バブル崩壊を経て、一九九〇年代後半から打ち続く日本の加速的零落の中で、「生活困窮階級」として、諸般の事情のため大江晩年のものに目を通す余裕がほとんどなくなり、今に立ち至っている。そこで、追悼とはいえ、フォローになっている文章はないものかと探していると、蓮實重彦がこんなことを言っている。箇条書きで引こう。

 

(1)「ごく例外的ながら、ここで国籍と性別についてひとまず触れておかざるをえない。というのも、現在の時点で読む価値のある大江論の大半は、まぎれもなく日本国籍の世代を異にする女性たちによって書かれたものだからである」(蓮實重彦「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.110』講談社 二〇二三年)

 

(2)「なぜ、女性たちばかりが、いま、かくも詳細に大江を論じ続けることになったのか。それには、大江の読者の質の変化ともいうべきものが深くかかわっているように思う」(蓮實重彦「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.110』講談社 二〇二三年)

 

(3)「問題は、二十一世紀に入ってから書かれた大江の作品で、多くの女性の登場人物が、饒舌さとはおよそ異なる真摯で雄弁な言葉遣いで語る主体となっているという現実にほかならない」(蓮實重彦「追悼 大江健三郎」『群像・2023・05・P.112』講談社 二〇二三年)

 

二〇〇〇年以後の大江健三郎をも読まないわけにはいかない。当たり前といえば当たり前なのだが。とりわけ日本で、日本ゆえに「性」について、その曖昧性とともに違いについても、小説化されなくてはならないという思いはずっと強くあったのだろう。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて354

2023年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。ずっと雨が降っていました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

二〇二三年四月七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて353

2023年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は曇り、湿度は89パーセントのようです。湖東方向も雨。鈴鹿峠も雨のようです。

 

午前五時二十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.7)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

日が出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.7)

 

二〇二三年四月七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。