「失われた時を求めて」では一つのシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を指し示すために数ページに及ぶシニフィアン(意味するもの・記号・文章)が用いられる。逆に一つのシニフィアン(意味するもの・記号・文章)が複数のシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を指し示すために用いられる。この方法は、幾つもの場面で、幾つものテーマで、何度も繰り返し演じられる。
一つのシニフィアン(意味するもの・記号・文章)はいつも複数のシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を指し示すことができる。また逆に、一つのシニフィエ(意味されるもの・意味内容)はいつも複数のシニフィアン(意味するもの・記号・文章)で置き換え可能である。この事実は何を言おうとしているのだろう。
一つのシニフィアン(意味するもの・記号・文章)がいつも唯一絶対的にたった一つのシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を指し示すことなど決してあり得ない。どんなテーマが持ち上がってきたとしても、そこでは必ず複数のシニフィアン(意味するもの・記号・文章)と複数のシニフィエ(意味されるもの・意味内容)とがひしめき合い、さらにそれらは、無数のひしめき合いとも無数の闘争とも平穏無事な無風地帯とも取れる無限の系列をなして、常にトランス(横断的)で多元的かつ重層的な世界を生成変化させつつある。プルーストがいうのはほぼ間違いなくそういうことであるだろう。
「われわれがこの人間のなにかを求めたときに受けとる手紙には、その人間はほとんど含まれていない。あたかも代数の文字には、もはや算数の数字が算定したものは残存せず、その算数の数字にも、数えあげられた果物や花の特質は含まれていないのと同様であろう。にもかかわらず、恋人とか、愛されている人とかのことばといい、その人の手紙といい、一方から他方への変換がいかに満足できぬものであっても、いずれもやはり同じ現実の人をさまざまに翻訳したものとみなしうるのは、それを読むときこそ不充分なものに思える手紙も、それが届かないかぎりわれわれに耐えがたい苦しみを味わわせるからであり、そこに記された小さな黒い記号によって、そこにあるのは発言や微笑みや接吻そのものではなくやはりその等価物にすぎないと感じるわれわれの欲望を充たすことはできずとも、われわれの激しい不安を充分鎮めてくれるからである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.91~92」岩波文庫 二〇一七年)
まずこうある。
「われわれがこの人間のなにかを求めたときに受けとる手紙には、その人間はほとんど含まれていない。あたかも代数の文字には、もはや算数の数字が算定したものは残存せず、その算数の数字にも、数えあげられた果物や花の特質は含まれていないのと同様であろう」。
言葉も数字も、ただそれだけではかえって、それを書いた「その人間」も、果物や花であれば、その「果物や花の特質」も、どちらをもほとんど何一つ伝達することができない。人間が受け取ることができるのは「言葉・数字」ばかりだ。しかし人間は「言葉・数字」ばかりを受け取ることから始めるしか方法を持たない。どういうことか。
(1)「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
(2)「このことを証明するためには、あらゆる領域においてわれわれが真に知ることが、もしくは知ると信じることができるのは、われわれ自身で《観察》しうるものか、もしくは《制作》しうるものにほかならず、作品を産む精神の観察と、その作品の或る価値を産む精神の観察とを、同一の意識状態、同一の注意のなかに集めることは不可能であることを注意するだけで十分であります。この二つの機能を同時に観察することのできる眼は存在しません。生産者と消費者は本質的に分離された二つの組織であります。作品は生産者にとっては《終結》であり、消費者にとっては、人の望みうる限り相互に無関係たりうるさまざまの発展の《始原》であります」(ヴァレリー「詩学序説」『世界の名著66・アラン/ヴァレリー・P.476~477』中公バックス 一九八〇年)
ヴァレリーのいう(2)については以前にも述べた。芸術だけが特権的ではなく、どんな芸術もすべて含めて、「生産者にとっては《終結》であり、消費者にとっては、人の望みうる限り相互に無関係たりうるさまざまの発展の《始原》であります」、としか言えない。そこへ他者の目が、あるいは耳が、身体が、到達するやいきなり立ち現われる何かがある。その何かを指して「言語(数字含む)・作品(芸術・反芸術)・身振り(振る舞い・踊り・睡眠)」と言いもし言われもする。
手紙に書かれた「小さな黒い記号」。あるとないとで大違い。選挙でいう「有効票」と「無効票」との違いよりも遥かに大きい。桁違いだ。
この「小さな黒い記号」というのは、「発言や微笑みや接吻そのものではなくやはりその等価物にすぎないと感じるわれわれの欲望を充たすことはできずとも、われわれの激しい不安を充分鎮めてくれる」ような、まさしく世界の始原について当てはまる事態に照準を合わせて言われているからである。世界というものは、さしづめこの「小さな黒い記号」とでも言っておくしかないような、ある差異が生じたその瞬間、まるで無としか言いようのない空白を押し開きつつ、始めて生じてきたというほかないからだ。
もしそうでないとすれば「等価物」という言葉に含まれる<ある価値>と<別の価値>との交換体系というものは決して生まれてくることができなかったに違いない。プルーストの同時代人たちの中にはそれに気づいていた人がいた、複数いた、ということもまた疑いようのない事実だろう。
戦前戦後をまたぎ越えるだけでなく、ジャンル分け可能な<古典>としての地位を確立したというだけのことでもなく、あるページが開かれたその瞬間すでに<外部へ>、<外部へ>と、ひたすら読者を誘惑しつつ生成変化していくテキストとしてずっと未来へ延びていき引き継がれていく、そんな可能性の断片として、この一節は不意にさしはさまれていると言いたいのである。