制度としての文字。制度としての顔。あらゆる身振り(言語・振る舞い)は一九〇〇年代初頭すでに、それがどんな人間の文章であれどんな人間の顔であれ、見る側によってたちまち読み取れる単なる記号と化していた。
「手紙に記された文字はその人の思考をあらわしているし、顔の表情もその人の思考をあらわしている」。
プルーストの同時代もはや世界はそうなっていた。「記された文字」も「顔の表情」もともに、制度として確立されていた。人間の目でやすやすと読み取れる制度として。人間による人間の家畜化に成功していたということだ。
「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫 一九九三年)
ところが、いともたやすく読み取れるはずの「文字・顔」が、不意に読み取りにくくなることもしばしばあった。ホフマンスタールはいう。
(1)「たいがいの顔はぼやけ、自由豁達(じゆうかつたつ)でなく、多種多様のことが書きしるされてはいるものの、そのいずれにも確信が欠け、崇高さが欠けている」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.188』岩波文庫 一九九一年)
(2)「この四ヶ月間ずいぶん汽車に乗った。ベルリンからライン河畔へ、ブレーメンからシュレージエンへと縦横にだ。すると、いつであれ午後三時、あるいはいつでもいい、ごくありふれた光のもとでおこるのだ。線路の左右の小さな町、あるいは村、工場、風景の全体、丘、畑、林檎の木、散在する家、それらすべてが入りまじり、一つの顔をもち、内側にあってはまったく不確かで実にたちが悪いくらい非現実めいた、独特の曖昧な表情をし、ひどくうつろにーーーこの世ならぬほどうつろになる」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.207』岩波文庫 一九九一年)
人間が書き記す文字も人間の顔も「著しく変わってしまう」ことがある。恋愛を例に取ってみると、「このような不断の変形こそ、われわれが恋愛においてたえず幻滅を味わう原因のひとつなのかもしれない」。制度は必ずしも一定不変ではない、むしろ時間の作用として「不断の変形」に晒されており実際に「変形」していくとプルーストはいう。
「もちろん手紙に記された文字はその人の思考をあらわしているし、顔の表情もその人の思考をあらわしているわけで、われわれはつねになんらかの思考と向き合っている。とはいえある人間の思考が目に見えるようになるのは、睡蓮の花のように開いたその人の顔という花冠のなかに思考が広がったときにすぎない。そのせいで人間はやはり著しく変わってしまう。このような不断の変形こそ、われわれが恋愛においてたえず幻滅を味わう原因のひとつなのかもしれない。われわれは逢い引きのたびに愛する理想の存在がやって来るものと期待していたのに、この変形のせいで、われわれの夢をもはやほとんど含んでいない生身の人間が目の前にあらわれるからである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.88~89」岩波文庫 二〇一七年)
文字も顔もともに不断の変化に晒されているというのはなるほどそうだ。しかし<私>は人間が書いた手紙の文字も顔もともに読み取ることができる。読み取ることができて始めて人間は相手の思考が「著しく変わってしまう」事実に直面して驚くのだ。
第一に、ある制度が支配的で一定している時期。第二に、別の制度が支配的で一定している時期。第三に、ある制度から別の制度へ移行するあいだ、制度が解体・変形している時期。都合三つの時期の存在が認められるだろう。
ある制度が安定的に作動している時期。<私>は<他者>の顔を読み取ることができる。読み取るや否や何かが起こる。何が起こるのか。例えばヒロシマで悲惨な体験を味わった人々の顔と直面するとき、その人々の顔と<私>との間で何が生じるだろうか。
(1)「(相手の)顔が私にじぶん自身の義務を思いおこさせ、私を裁く」。
(2)「その超越において私を支配する<他者>は、同時に異邦人、寡婦、孤児であり、かれらに対して私は義務を負っている」ことを見出させる。
「<他者>はただたんにその顔のうちに《あらわれるのではない》。<他者>のあらわれは、行動と自由の支配のもとに従属した現象とはことなる。じぶんがとりむすぶ関係そのものから無限に遠ざかりながら、<他者>は絶対的なものとしてこの関係のうちでひといきに現前する。《私》は関係から、とはいえ絶対的に分離された存在との関係のただなかで、その関係から身を引き剥がす。他者が私にふり向くときのその顔は、顔の表象のうちに吸収されてしまうことがない。正義を叫ぶ他者の悲惨さを聴きとることは、あるイメージを表象することではなく、責任あるものとして自己を定立することであり、顔のうちに現前する存在よりも過剰であると同時に過少なものとしてみずからを定立することである。過少なものであるのは、顔が私にじぶん自身の義務を思いおこさせ、私を裁くからである。顔のうちで現前する存在は高さの次元から、超越の次元から到来する。当の存在はそこで異邦人として現前しうるけれども、障害物や敵対者のように、私に対立することがない。他方、過剰なものとして自己を定立するのは、《私》としての私の定立が他者の本質的な悲惨に応答しうることであり、じぶんでそのための資源を見出すことであるからだ。その超越において私を支配する<他者>は、同時に異邦人、寡婦、孤児であり、かれらに対して私は義務を負っているのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第3部・P.78~79」岩波文庫 二〇〇六年)
そこで今の日本の一般市民の中から、カルト被害者が、なぜ法的手段に訴えることなく、裁判闘争に絶望し、政府首脳陣に向けて銃撃事件を起こすのかが、始めて見えてくるに違いない。
レヴィナスが言おうとしているのはどういうことか。ナチスドイツというカルト政治集団が全ドイツの政権を握りつつ、すべてのユダヤ人とその協力者を「敵」と見立ててどんどん焼き殺しガス室送りにしていった、その被害者と家族の生の心情に立ってみてほしい、そういうことだ。カルトとその広告塔となった親ナチス政治家によって「家庭」を粉砕され、史上空前の暴力装置によって人生のすべてを奪われ去った大勢の人々。
ナチスドイツという名のカルト政治集団とそれを大いに支持して止まない政財官界が振り回し振り下ろす暴力の嵐によって人生のすべてを奪われ去った「失うものは何もない」被害者たち。
今の日本はどうだろう。かつて東南アジア全域でナチスドイツ並の暴力をほしいままにした安倍元首相の祖父とその周辺の人間・人脈。つい一昨日、江川紹子らが要求した「山上容疑者」<と>「公判前整理手続き」の公開。安倍元首相銃撃事件の検証に当たって避けることのできない事情の核心がそこにある。とりわけ被害者の心情は<何に狙いをつける>か。カルト教祖ではなくなぜ広告塔の「顔」を目がけて銃弾を放つのか。カルトを巨大化させた張本人だというだけでは説明のつかない問題点がある。それだけでは決して十分ではないのだ。レヴィナスはいう。「暴力が目ざしうるのは顔だけなのである」と。
「他者は現前すると同時にまた到来するものであり、無限なものの次元とは他者の顔が開く次元なのである。戦争が生起しうるのは、じぶんの死を繰り延べる一箇の存在が暴力に供される場合だけである。つまり戦争はただ、語りが可能であった場においてのみ、生起することが可能なのだ。語りによって、戦争が支えられていることになる。さらにいえば、暴力が目ざすのはたんに、ものを処理するように他者を処理することだけではない。暴力は殺人とすでに接しているものとして、際限のない否定から生じる。暴力が狙いをさだめることができるのはある現前だけであって、その現前は私の権能に挿入されていながら、それ自体としては無限なものである。つまり、暴力が目ざしうるのは顔だけなのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第3部・P.101~102」岩波文庫 二〇〇六年)
さらに山上容疑者から見れば、安倍元首相の側はナショナリズムの臭いで充満したカルト的「家族観」を全国民に対しぐいぐい押し付けるようあからさまな圧力をかけながら、一方、山上容疑者自身の家庭は粉砕されきったにもかかわらず、銃撃事件が起きる直前まで、ワイドショーを始めとするテレビやラジオは今なお全国で進められているカルト被害者救済裁判とその粘り強い運動の歴史とが、視聴者の目に<見えない>よう常に働きかけてきた。なぜなのか。
また、レヴィナスのいう「暴力が目ざしうるのは顔だけなのである」という洞察。なるほどそうかも知れない。だが「失うものは何もない」立場に立たされた被害者にとって、ただ単に顔の破壊、広告塔という制度の破壊、を狙うだけではまだまだ釣り合いが取れないという感覚があったに違いない。飽き足りないのではなく必要がある。広告塔にこそ死んでもらうという必要が。
そこで銃口の焦点はぶれる。頸部の大動脈と顔と。どちらも一度に、というわけにはいかない。さらに山上容疑者は銃器の取り扱いに慣れていないし慣れているはずもない、はなはだしい素人でしかない。
今のままでは第二第三の山上容疑者が出てくるかも知れないと危惧して見せるだけではなんの解決にもなりはしない。むしろ何百何千というカルト被害者とその二世三世たちがどんどん繋がりをつけたり瞬時に切ったりできるテクノロジーがあちこちで毎日のように更新再更新されている。
いつも遅い。日本は。こんな物騒な社会を加速的に築き上げてきた政府首脳陣とその人脈。G7の中の滑稽な落ちこぼれ。「所詮、近いうちに終わるのだろう、この国は。ならもうどうでもいい」。そう思ってもおかしくない人々たちであふれかえってくるのは何も全然理由がないわけではないのである。