アルベルチーヌだけでなく、すでに何度か言及されているように、アルベルチーヌと出会うことがなかったなら出会い愛し合うことができたに違いないもっと多くの女性たちがいる。ゲルマント夫人はその一人である。さらに「洗濯物の籠をかかえた洗濯女とか、青いエプロンをしたパン売りの女とか、白地の胸当てと袖とをつけて牛乳瓶を吊した鉤棒をかついだ牛乳売りの女とか、家庭教師の女を従えた誇り高いブロンド娘とか」もそうだ。
けれども、<私>はアルベルチーヌに対する絶え間ない監視管理を制度化したため、今度は逆に<私>の側がアルベルチーヌに縛り付けられる転倒を起こしてしまい、アルベルチーヌを監視管理していなかったらあり得たに違いない多くの出会いの機会をむざむざ自ら潰していく終わりのない作業から離れることができなくなっていた。
「たとえある一日にさまざまな欲望を求めるだけにしても、その欲望のなかにはーーー事物に駆り立てられる欲望ではなく、人間にそそられる欲望のようにーーー個人的な性格の欲望も存在する。それゆえ私がベッドから出て、いっとき窓のカーテンを開けてみるのは、音楽家がいっときピアノの蓋を開けるときのように、バルコニーや通りの太陽の光の響き具合が私の想い出のそれとぴったり合致しているかを確かめるためばかりではなく、洗濯物の籠をかかえた洗濯女とか、青いエプロンをしたパン売りの女とか、白地の胸当てと袖とをつけて牛乳瓶を吊した鉤棒をかついだ牛乳売りの女とか、家庭教師の女を従えた誇り高いブロンド娘とかを見るためであった。要するに、音がふたつ違うだけで音楽のフレーズが一変してしまうように、輪郭に量的には取るに足りぬ相違があるだけで他とはまるで違ってしまうイメージをかいま見ようとしたわけで、そのイメージを見ることがなければその一日は、私の幸福への欲望にたいしてその日が提供してくれる目標を欠き、その分だけ貧しいものになるだろう。ところが前もって想像することなどできない女性たちを見て授けられた追加の歓びのおかげで、私にとって通りや町や世界はいっそう欲望をそそるもの、探索するにふさわしいものとなり、それゆえ私は健康を回復したい、外出したい、アルベルチーヌのいない自由の身になりたい、という渇望にさえとり憑かれた。私が夢見ることになる未知の女が、ときには歩いてときには自動車に乗って全速力で家の前を通ってゆくとき、その女を捕まえる私のまなざしに自分の身体がついてゆけず、窓なる銃眼から火縄銃で撃ち出されたかのようにその女に飛びかかってその顔の遁走をくい止めることができない事態を私はいくたび我慢したことだろう!その顔には幸福が差し出されて私を待ちかまえているというのに、こうして蟄居(ちっきょ)する私にはけっしてその幸福を味わうことができないのだ!」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.58~60」岩波文庫 二〇一六年)
アルベルチーヌに対する「感動や不安の過程」は、アルベルチーヌとの快楽かさもなければ他のもっと多くの女性たちとの快楽かという単純素朴な二者択一的選択を問題にしていない。そうではなく、「その対象はべつの女性に置き換えられているかもしれない」し、実際のところ実にしばしば置き換えられているという「対象」の置き換え可能性と増殖可能性とを問題にしている。
そしてこの事情はアルベルチーヌにも当てはまるだけでなく、アルベルチーヌは<私>という偏狭この上ない性を軽々と超え出て高速移動する。<私>はシャルリュスやモレルのような多様な性愛のあり方を身近に持っている。しかし<私>自身の性癖は男女のペアしか認めないし認めることができない。逆にアルベルチーヌは愛する対象を<私>だけに絞り込むわけではまったくなく、<私>を含むありとあらゆる性へ向けて越境する欲望を忠実に生きる。
男女のペアしか認めないし認めることができない<私>の性癖は多種多様な性愛のあり方の一つでしかなく、ただ単にそれが過半数を占めるというに過ぎない。性的関係は探究すればするほど多種多様なあり方に出会うばかりだ。唯一「正しい」性愛というものはどこにもない。
(1)「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上・八九六・P.491」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫 一九七七年)
「感動や不安の過程というのは、すくなくとも当の女性にかんするかぎり忘れられていて、というのも、その過程があらたな展開を見せたとしても、その対象はべつの女性に置き換えられているかもしれないからだ。そうなる以前、感動や不安の過程がまだその女性に結びついていたとき、自分の幸福は当の女性に左右されるとわれわれは思いこんでいたが、じつのところそれを左右するのはわれわれの不安の終焉だったのだ。それゆえ、愛する女性のすがたをその時点できわめて小さなものにしていたわれわれの無意識は、われわれ自身よりも明敏だったといえよう。これ以上待つことなく即刻その女性を見つけだすのが生命にかかわる重大事と思われたこの恐ろしい惨事のさなかでも、われわれはその女性のすがたを忘れてさえいたのかもしれないし、そのすがたをよく想い描けずにつまらないものと想いこんでいたのかもしれない。女性のすがたが占めるきわめて小さな割合、これは恋が育まれるありかたの論理的かつ必然的な結果であり、恋が主観的な性格のものであることの明らかな寓意なのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.51~52」岩波文庫 二〇一七年)
そもそも<私>にしてからそうではなかったか。必ずしもアルベルチーヌでなくていい。「洗濯物の籠をかかえた洗濯女とか、青いエプロンをしたパン売りの女とか、白地の胸当てと袖とをつけて牛乳瓶を吊した鉤棒をかついだ牛乳売りの女とか、家庭教師の女を従えた誇り高いブロンド娘とか」へ、次々置き換えていくのはいつでも可能だというのである。
だが<私>は男女のペアしか認めることができない点で子どもを産むためだけに必要とされる家畜でしかない。より一層速く走れればそれでいいし他のことは何一つできなくて構わない競走馬をわざわざ人工繁殖させるための種付馬として飼育されているに等しい。人間は何種類もの動物を家畜化し、家畜を量産し、食品加工することで生きていくことができる。とはいっても、同じように日常生活に密接な、むしろ日常生活として、物ごころついた時すでに、職場や教育現場を通して、実にしばしば人間は人間自身をも同時に家畜化してしまっていることにややもすれば非常に無頓着である。
昨今「カルト化する教育」というテーマが重大視されている。一九八〇年代後半バブルの時期にもあった議論だが、ただ単なる蒸し返しではないところが問題として新しい。社会的主導層を構成する人々の手元へ集中された最先端テクノロジーが主導する極めて合理化された教育。もはや洗脳、それもたいへん洗練された、洗脳されている側が洗脳されていることに気づかないような方法を通した洗脳が堂々と公教育を名乗る資格を得て流通している。
ところが逆説的にもアルベルチーヌのような人間をカルト化することは決してできないということもこれまた事実である。例えばアルベルチーヌという名前が同じだったとしも、その内容は異なる別人であって全然構わない。特定の誰かでなくてもいい。むしろ特定してしまうと逆にいずれ飽きることが目に見えている。プルーストはこう描く。それがわかっていながら<私>は「なぜか」アルベルチーヌを束縛することで逆にアルベルチーヌに束縛される苦痛を選んでしまう。アルベルチーヌを所有・支配しようとすればするほどますますアルベルチーヌに束縛される、というふうに。
結果的にアルベチーヌに対する制度化された監視管理の日々に縛られてとうとう身動きならなくなっている<私>は、縛られれば縛られるほど今度はますますアルベルチーヌを憎悪するようになる。
また、「女性のすがたが占めるきわめて小さな割合、これは恋が育まれるありかたの論理的かつ必然的な結果であり」、とある。愛する人間の想像力の中で愛する相手の容姿が占める割合は大きくもなり小さくもなる。「感動や不安」の強度によりけりでアルベルチーヌはいくつもの形態へ無限に分裂していく。ますますもって<未知の女>たることをやめようとしない。
ブライアン・イーノのアンビエント(環境音楽)。「動物、極微生物、労働者」といった言葉がふつうに歌われる。エネルギーについても「クリーン」とか「スマート」とかの形容詞に騙されないし騙されたことのない、いつものイーノ。その3です。