プルーストは署名と暗号との等価性について語っている。
「ある日、私の愛人のひとりに宛てたものと思って間違って手紙を開封したとき、それが合図のようなスタイルで記され、『サン=ルー侯爵のところへ行くための合図をずっと待っています、あす電話でお知らせください』と書いてあったので、私は一種の逃亡計画ではないかと考えた。私の愛人はサン=ルーとは面識がなく、私がその話をするのを小耳に挟んだことがあっただけなので、サン=ルー侯爵の名前にはべつの意味が込められているにちがいない、そもそも署名された名前があだ名みたいで、まるで名前のていをなしていない。ところがその手紙は、私の愛人に宛てたものではなく、同じ建物の別の人物に宛てたもので、封筒には別の名前が記されていたのに私が読み違えたのである。手紙は、べつに暗号で記されていたわけではなく、書いたのがアメリカ人女性だったせいで下手なフランス語になっていたにすぎず、サン=ルーが教えてくれたところではたしかにサン=ルーの女友だちだが、このアメリカ人女性ときたらいくつかの文字を奇妙に書くので、まっとうな実在する外国人の名前がまるであだ名のように見えたのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.37~38」岩波文庫 二〇一七年)
しかし「別の名前が記されていたのに私が読み違えた」という事態はなぜ発生するのだろう。
「というのも私は、美しいボディーラインを目撃したり、生き生きした顔色をかいま見たりするだけで、そうあるはずだと信じて、そこに惚れぼれする肩や甘美なまなざしなど、私がいつも想い出や先入観として心のなかに蓄えているものをつけ加えてしまっていたからである。このようにちらっと見ただけであわてて人を判断して陥る誤謬は、大急ぎで文章を読んでいるとき、ひとつのシラブルを見ただけで残りのシラブルを確認する時間をとらず、記された語のかわりに記憶からとり出した語を読んでしまう誤りと似ている」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.343」岩波文庫 二〇一二年)
異なる言語で容易に置き換えることができるだけでなく、たいへん多くの人間は、しょっちゅうそういう間違いを犯しがちだとプルーストはいう。
ところで「署名」にせよ「暗号」にせよ現代社会の「匿名」とはまるで違っている。昨今流通しているAIを始めとする高度テクノロジーを駆使したネット社会の匿名性は、社会変革の大きな力として作用する一方、その同じ匿名性の誘導的組織的動員によって、ほぼ予想されていたことだが、つい最近、自殺者を出した有名な事件に触れておこう。
木村花自殺事件。宇野常寛はいう。
「それでもこの段階では『やらせ』的な演出込みで番組を楽しむスレた視聴者たちの文化に制作サイドが悪乗りしはじめた、くらいの認識だった。それがこれはさすがにまずいのではないか、と私が感じるようになったのは、二〇一九年末前後のことだ。この付近から、共同生活を送る出演者の若者たちの言動にコメントを加えるスタジオのタレントたちの発言が、明らかに特定の出演者への批判を煽るものに変質していたからだ。正確には、以前より多かれ少なかれ存在したこのような発言が、相対的に過激化した。このスタジオのタレントたちは、いわばワイドショーのコメンテーターのようなものだと考えればいい。タレントたちが、これはいかがなものかと『感想』を述べる。発言力の大きいタレントの意見に、他のタレントたちの意見が同調して『空気』が生まれる。このスタジオ内の『空気』はそのままタイムラインの『潮目』になり、放送後はその週に批判された出演者のInstagramやTwitterのコメント欄に一般視聴者の批判が殺到することになる。少なくともこの時期には発言力の大きいYOUや山里亮太などによってターゲットに指定された出演者は、かなりの量の誹謗中傷を受けることが常態化していた。私がもっと耳を疑ったのが、このタレントたちがある出演者を『売名行為で出演している』と批判したことだ。売名目的の出演を批判するのなら、まずあなたたちがタレントを廃業すればいい、と心底呆れた記憶がある。
そして二〇二〇年五月二十三日に、出演者の一人である木村花が死亡した。これは『TERRACE HOUSE』の視聴者による誹謗中傷が原因の自殺だと考えられている。
ーーーこのあまりにも痛ましい事件の特徴は、この木村の自死の責任をプラットフォームとメディア、そして視聴者が互いに押し付けあっているという醜悪な構造が出現したことだ」(宇野常寛「庭の話9」『群像・2023・04・P.406~407』講談社 二〇二三年)
この三角形。「メディア」と「プラットフォーム」と「匿名の視聴者」。宇野常寛はアーレントを引用する。
「ここで初回に取り上げたハンナ・アーレントの<グレートゲーム>についての考察を思い出してもらいたい。匿名のプレイヤーとなり、人種や出自を超えてただスコアを競うこと、純粋にゲームの快楽とその成果に対する承認を受け止めることで、プレイヤーたちは自らの行為が、そのゲームの背景をなすシステム(この場合は帝国主義)の拡大に加担していることに無自覚になる。この構造が、現代プラットフォームとそのユーザーに当てはまることは、初回で指摘したとおりだ」(宇野常寛「庭の話9」『群像・2023・04・P.406~407』講談社 二〇二三年)
アーレントへの言及は間違っていないだろう。そして三月号で対談した國分功一郎の「中動態の世界」に対する理解もわかる。また、木村花自殺事件「報道」について、「メディア」も「プラットフォーム」も「匿名の視聴者」も、宙吊り状態で実質放置したままだという見解もその通りだと思う。
さらにいえば、「メディア」も「プラットフォーム」も「匿名の視聴者」も、こぞって木村花自殺事件「報道」を大々的に取り上げたわりには、今なお実質放置したままなのはなぜか、という素朴な疑問にも答えてほしかった気がしなくもない。そして同時に木村花自殺事件「報道」は、成り行きなのかそれとも意図的なのかさっぱりなのだが、これまた放置されてしまったフィリピン当局絡みの高齢者連続強殺事件「報道」と同様の、なんだか意味不明のまま宙吊り状態で放置するという、謎めいた取り扱い方を受けていることも大変疑問に思えてくる。
そのあいだ、安倍元首相射殺事件があったわけだが、木村花自殺事件「報道」や高齢者連続強殺事件「報道」の側はテレビ画面を覆い尽さんばかりに大々的だったにもかかわらず、「メディア」にすれば遥かに大きな衝撃であったはずの安倍元首相射殺事件を「メディア」自身がほとんど取り上げていない。むしろ逃げ去りたくて仕方がないかのようだ。「プラットフォーム」も「匿名の視聴者」も、どこをどう迷い込んだらそうなるのか、よくわからない態度を少なくとも三ヶ月以上続けた。そしてこの春の統一地方選が始まった。
何が言いたいかというと、宇野常寛がアーレントを引用しつつ批判する、高度テクノロジーを駆使した今の日本の加速的「全体主義化あるいはカルト化」について批評は何ができるのか、もっと見せてほしいと思うのである。
三月号の対談では古い言葉で「やりがい搾取」について述べていた。それならもっと古くから盛んに言われてきたのに一向に改善の余地一つない、むしろまたしても開き直りつつある「感動ポルノ」も論じられるに違いない。だからといって実在するセックスワーカーの現在地についても論じられるかといえば全然そうとは限らない。にもかかわらず、なぜ福島原発事故を語ることはできるのか。どれも社会問題という点で、それぞれ単純ではないによせ、批評の俎上に乗せることは可能だと思われるわけなのだがーーー。少なくとも重層的に絡まり合った織物の様相を呈しつつ折り重なる部分はいくらでもあると思われる。
國分功一郎で思い出したのだが、福島原発事故発生から半年後、アーレントとマルクスとの違いについて面白い話をしていた。アーレントによるマルクス「資本論」の「かなり悪質なテキスト改竄」。もっとも、どちらが正しいか正しくないかという話ではない。
「アレントはマルクスが、『労働が廃止されるときにのみ<自由の王国>が<必然の王国>に取って代わる』と主張したと述べている。そしてその証拠として『資本論』の一節を引用しながら次のように言う。
なぜなら『自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働が止(や)むときにのみ始まり』、その場合にのみ『肉体の直接的な欲求の支配』が終わるからである」。
念のために述べると、ゴシック表示した部分がマルクスからの引用である。『自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働が止(や)むときにのみ始まり』というマルクスの一節はアレントにとって決定的なものであったらしく、マルクスを中心的に論じた『人間の条件』第三章で二度も引用されている。
しかしこれは、《労働が廃止されたときに自由の王国が始まる》と述べた文であろうか?まったく違う。これは、《欠乏と外的有用性によって決定されるような労働》が止むときに、自由の王国が始まると述べた文である。『欠乏』によって決定されるとは、生存ギリギリの生活をしているから、仕方なく、ひどい労働条件で働くということだろう。『外的有用性』によって決定されるとは、外的に、たとえば現在の産業化社会にとって有用とみなされたものしか、まともな労働とはみなされない、そういう事態を指しているのだろう。
マルクスが言っているのは、《そのような》労働は廃棄されねばならないということだ。《いったいどこに労働そのものの廃棄が書いてあるというのか?》
しかもアレントはその後の引用では、『欠乏と外的有用性によって決定される』という部分を意図的に除去し、『自由の王国はまず労働を廃止する行為において始まる』などと書き記すのである」(國分功一郎「暇と退屈の倫理学・P.218~219」新潮文庫 二〇二二年)
アーレントから二箇所引こう。
(1)「『ドイツ・イデオロギー』には『そこで問題なのは、労働を解放することではなく、それを止揚することである』という言葉が見られ、何十年かのちの『資本論・第三巻・第四十八章』には『自由の王国はまず労働を廃止する行為において始まる』とある」(アレント「人間の条件・P.193~194」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「マルクスの労働にたいする態度、したがって彼の思想のほかならぬ中心的概念にたいする態度は、終始一貫、多義的である。労働は『自然によって押しつけられた永遠の必要』であり、人間の活動力の中で最も人間的で生産的である一方、革命は、マルクスによれば、労働者階級を解放することではなく、むしろ、人間を労働から解放することを課題にしている」(アレント「人間の条件・P.160」ちくま学芸文庫 一九九四年)
なるほど國分功一郎の指摘は正しい。そしてこう続ける。
「これはかなり悪質なテキスト改竄である。しかし、アレントを非難しても仕方ない。問題は、『欠乏と外的有用性によって決定される』という文句がアレントの目に入ってこないということだ。もうこうなると、読み間違いの問題ではない。アレントの欲望の問題である。アレントはマルクスのなかに労働廃棄の思想を読み取りたくて仕方ないのである。
アレントはいわゆる疎外論者たちが陥っていたのと似たトラップに陥っているように思われる。そのトラップとは一つの偏見、すなわち、疎外について論じている者は、悲惨な現実を《全面的に》廃棄して《本来的な》理想状態へと向かうことを志向しているという偏見である。たとえば、『自然に帰れ』が何の疑問もなくルソーの言葉とされてきたのは、ルソーは文明による疎外を論じているのだから、文明の全面的な廃棄と本来的な自然状態への復帰を望んでいるはずだと思い込まれてきたからだ。アレントはこれと同種のトラップにかかっているのだ。
マルクスはたしかに『疎外された労働』について論じた。彼は近代の代表的疎外論者である。しかし、マルクスはその代わりに『本来の労働』を置こうとしているのではないし、労働が廃棄された『本来』の人間のあり方をもとめているのでもない。彼は本来性を想定することもなく疎外について考えている。つまり、ルソーの場合と同様、マルクスもまた、《本来性なき疎外》について考えている」(國分功一郎「暇と退屈の倫理学・P.219~220」新潮文庫 二〇二二年)
マルクスはいう。
「社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余価値の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行われるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.338~339」国民文庫 一九七二年)
再びアーレントから。マルクスは「二流の著述家」ではないがゆえに「かえって矛盾がその作品の核心にまで導入される」と。
「つまり、労働が廃止されるときにのみ、『自由の王国』が『必然の王国』に取って代わるのである。なぜなら『自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働が止むときにのみ始まり』、その場合にのみ、『肉体の直接的な欲求の支配』が終わるからである。このようなはなはだしい根本的な矛盾は、むしろ二流の著述家の場合にはほとんど起こらないものである。偉大な著作家の作品なればこそ、かえって矛盾がその作品の核心にまで導入されるのである」(アレント「人間の条件・P.160」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そんなアーレントの認識を踏まえて國分功一郎はいう。
「マルクスがここで述べていることは、アレントのいう『一流』の著作家が書いたものにしては、つまらないぐらい常識的なものである。『欠乏と外的有用性によって決定される労働』は止み、『自由の王国』が実現されねばならない。しかし、それは労働そのものが廃棄されるということではない。というのも、『自由の王国』は『必然の国をその基礎としてのみ花開きうるにすぎない』から。
どういうことかと言えば、マルクス自身が述べているように、『自由の王国』の条件は労働日の短縮なのである。働き過ぎを止めさせ、労働者に余暇を与えるということだ。労働はするけれど、余暇もある。だからこそ、『自由の王国』は『必然の王国』をその基礎とすると言われるのである。(『自由必然の国』)。
肩すかしを食らったような単純な答えではないか?たしかに大切だし、重要なことなのだけれど、何かこのあっけにとられるほど単純な答えに笑わずにはいられない。
ーーー『必然の王国』を基礎として花開く『自由の王国』。『《労働日の短縮がその根本条件である》』。
労働の廃棄でも、本来的な労働の開始でもない、労働日の短縮。言うまでもなく、労働日が短縮されれば現れるのは暇である。ならば《マルクスは》、労働について思考しながら、《暇についても考えていた》ことになるだろう。とはいえ、考えてみればこれは当然のことではないだろうか?労働がないときに人間は暇なのだから、《労働について徹底して考えた思想家が暇について考えていないわけがない》。ここに、マルクスと<暇と退屈の倫理学>との接点について示唆(しさ)的な一節が、『ドイツ・イデオロギー』のなかにある。非常にユーモラスな一節だ」(國分功一郎「暇と退屈の倫理学・P.222~223」新潮文庫 二〇二二年)
『ドイツ・イデオロギー』のどこになにがあるか。
「これにひきかえ、共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は《狩をし》、<そして昼>午後には《漁をし》、夕方には《家畜を追い》、《そして食後には批判をする》ーーー《猟師、漁夫、<あるいは>牧人あるいは批判家になることなく》、私の好きなようにそうすることができるようになるのである」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.66~67」岩波文庫 二〇〇二年)
國分功一郎はいう。
「『共産主義社会では』というところを読み変えればよい。これは実に示唆に富んだ一節であろう。『欠乏と外的有用性によって決定される労働』が支配している社会では、『どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくこと』などできない。だからそれが廃棄されなければならない。
大切なのは、魚釣りはしても漁師にはならなくてよい、文芸批評をしても評論家にならなくていいということではないだろうか?それは余暇を生きる一つの術である。マルクスの疎外論を読み解くためには、本来性なき疎外という概念が必要である。アレントにはそれがなかった」(國分功一郎「暇と退屈の倫理学・P.224」新潮文庫 二〇二二年)
だからアーレントはマルクスを理解できていないというわけではない。ある種の<見ない>態度を取っている限り、それはいつまで経っても<見えない>ということが、アーレントの<目>とマルクスのテキストとの<間>で生じている重要な問題だというのである。そこでマルクスのテキストに対してアーレントが同じ<目>で読もうとしている限り、何度繰り返してみてもなお、<見ない>以上、目の前まで差し迫って見えている巨大な危険さえ<見えない>という絶望的状況へ誘導されるがまま差しおかれてしまうほかない。誘導するのはアーレント自身の「欲望」である。ニーチェのいう「支配欲としての権力への意志」だ。
國分功一郎が「アレントにはそれがなかった」というのは、アーレントが自身の「支配欲としての権力への意志」に突き動かされるがまま、哲学/思想研究者としてはあり得ないほど短絡的に、自らの「欲望」で自分の<目>を覆い隠してしまったということを露呈させている。
「疎外論の代表的論者であるルソーとマルクスを論じてきて分かったことは、一般的な疎外論が本来性への強い志向をもつのに対し、彼らが本来性を想定することなく、しかし、疎外からの脱却を目指していたということである。これはどういうことかと言うと、《本来的なものを想定しない疎外論の方がむしろ正統派である》ということだ。
本来性への志向とは、もともとはこうで《あった》のに、そこから疎外されているから、本来の姿に《戻らねばならない》という過去への回帰欲望のことである。本来的なものとは、もともとそうであった姿として想定されるもののことであり、したがって、本来性という概念は過去形のものでしかあり得ない。だから本来性にもとづいて疎外論を構築するとき、その議論は保守的なものとなり、時に凶暴な、暴力的なものにすらなる」(國分功一郎「暇と退屈の倫理学・P.225」新潮文庫 二〇二二年)
さてここで、改めて高度テクノロジーの全体主義的かつカルト的政治体制へのあからさまな濫用によって、その動きはいずれ保守も反保守も関係なく自分自身(ここでは日本)をも呑み込み去って勝手に消化してしまうという事情はなぜ発生するのかという条件について触れておこう。
アーレントによるマルクス「資本論」の<見損ない>。「A=A」とあるにもかかわらず、なぜか、「A=Z」に見損なうことしかできない。「A=A」という文字が、いつまで経っても、「A=Z」にしか見えてこない。アーレントの全体主義分析はなるほどたいしたものだと思う。ところがマルクスを相手にするや、この種の<見損ない>という事態にいともたやすくはまり込んでしまう。以前、アルチュセールのいう<二種類の見損ない>について述べた。一方デリダはそんなアルチュセールをマルクスから厄介払いしようとしてこれまた何とも注意深そうな真面目くさった面持ちを浮かべつつ意味深に振る舞って見せた。とはいえアルチュセールがいいとかデリダがいいとか、そんな問題ではまるでない。
國分功一郎と宇野常寛からの引用はここまでにしよう。
高度テクノロジーとの協働という避けられない次元へ入っている今、よいことずくめでもなくよくないことずくめでもまたない、この世界。春の統一地方選で行われていることはなんなのだろう。
「メディア」も「プラットフォーム」も「匿名の視聴者」も、こぞって何をやっているのだろう。政治化しないといけない課題、未来どころか明日をもしれぬ課題、について<見ない>態度を押し貫きつつ、本来ないものを「本来あるべき」という妄想へ置き換え夢見ながら、「子どもたちの未来のために」と喚き立てて止まない。そう言いたいのなら、なぜ<見ない>ことにしている諸事情が多すぎるのはなぜかと、思えてこないだろうか。
匿名というのは仮面である。そして仮面の下には何もない。匿名という身振りそのものが所有欲や支配欲や破壊欲ばかりなのであって、それらがとぐろを巻いているほか何一つ見あたらない。「本来、本来、本来」という連呼は、すればするほどそれぞれの陣営がそれぞれの陣営の内部へ子どもたちとその未来とを一緒くたにしたまま、ますます保守的な監視管理の包囲網でぐるぐる巻きにして加工=変造させてしまうことしか知らない暴力的家畜化への意志である。暴力が暴力に見えないようなとても当たりのいいソフトな身振りで、例えば教育の現場を通して、計算し尽くされた心地よい機械装置を用いて、空気のように浸透してくる。すべての言動はただちに数値化され測定されマーケティングされ管理される。いずれの陣営にしても「全体主義に反対」と喚き倒しながら、やりたがっていることは、子どもたちとその未来のすべてを自分たちの陣営の中で全体主義的家畜へ改造することではないとでも言いたいのだろうか。
それとも、ことによると「メディア」も「プラットフォーム」も「匿名の視聴者」も、木村花を血まつりに仕立て上げて見せたにしては、余りにも差額があり過ぎるような、ほとんど何一つ触れられない事情が、それも少なくない複数の事情が、あるのだろうか。ないとすれば、<ない>ということをどう証明してみせることができるのだろう。
ちなみに生成AIの急速な普及は人間の家畜化カルト化に役立つ。沼正三「家畜人ヤプー」の世界化に役立つ。ただしいつも一定程度。収集された基礎データから確率論的回答を引き出す方法と速度とが画期的アップデートされるまでに一定期間を要するのは当たり前。ということはそれは同時に、用い方によっては、沼正三「家畜人ヤプー」の世界化の脱節(out of joint)にも役立つことを意味する。画期的アップデートと同時に出現する別の価値体系へ、使用者側も移動する機敏なフットワークが大事だろう。けれども速ければ速いほどいいかといえば決してそうではない。遅ければ遅いほどベターなケースもたくさんある。問題は依然として<速さ・遅さ>の両儀性を孕んで進行していくしかないだろう。
マイルス・デイヴィスへのトリビュート的なUKジャズ。「ビッチェズ・ブリュー」をもじったタイトル「ロンドン・ブリュー」は笑わせてくれますが、その2です。
VIDEO