白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・タマ闘病録13

2023年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年四月二十七日。投薬三十三日目。

 

日付が変わる少し前、大便あり。下痢の中に細長い軟便がある。

 

午前三時頃、通便あり。下痢と小便。下痢便はトイレの外、小便はトイレの中。さらに午前中、二度大便。いずれも下痢。もっとも下痢とはいえ、一定程度を越えてさらに液状に近づくということはない。軟度はいつも同じ。

 

午前九時三十分頃、ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)を22グラム程度摂取。

 

午後に二回、合わせて44グラム程度摂取。

 

一日摂取量66グラム。目安となる一日一缶にはほど遠い。

 

夕食後、いなばのエナジーちゅ~る(まぐろ)を買い足しにスーパーへ。

 

ちゅ~るにしても最初こそ食いつきがよかったものの、昨日は1本に減り今日は四分の一本程度しか摂らない。

 

午後八時三十分頃、初めて倒れた時のように隣室まで歩き、飼い主の布団の上で横になっている。

 

午後九時十分頃、便通あり。相変わらず下痢。しかし一方、軟便の割合が増えている。元に戻るかはわからないけれども、少しは整腸作用が回復しているのかも知れない。何食わぬ顔でソファにのぼってまるくなる。

 

流動食は一日四回摂取してくれれば、まあ理想には近づく。ところがタマの場合、三回が限度のようだ。子猫の頃からだが、そもそも口を開けてくれるまでがひと苦労。

 

写真は食事後、ソファで。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて388

2023年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は77パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前五時頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.4.27)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.4.27)

 

二〇二三年四月二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21・オデットとアルベルチーヌとの決定的違い

2023年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

苦痛に満ちたスワンの回想のような文章が続いている。しかし今度の苦痛はスワンにあるのではなく<私>にある。

 

「とはいえ私はアルベルチーヌのために莫大な金を使うのをやめず、これほど下劣な女であるにもかかわらず自分のものにしてきたのだから、この道徳的な下劣さはむしろ私がアルベルチーヌのうちに維持したもの、もしかすると私が増長させたもの、いや、もしかすると私が創りだしかものかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.114」岩波文庫 二〇一七年)

 

スワンとオデットとの関係から生じたスワンの苦痛。それを<私>はアルベルチーヌを相手に忠実に反復していくつもりなのだろうか。

 

<私>は反復する。スワンも反復する。けれども<私>の反復とスワンの反復とは、反復という言葉に限って見れば同じに見えるほかないにせよ、その内容は違っており、どちらの反復もまるで異なる複数の出来事がひしめき合い混み合う複合的なもので、絶えざる変化にさらされている。

 

「意欲とは私には何よりもまず或る《複合的なもの》で、ただ言葉としてのみ単純であるように思われる」(ニーチェ「善悪の彼岸・十九・P.35」岩波文庫 一九七〇年)

 

プルーストはジルベルトとアルベルチーヌとの違いについて何度か述べている。この違いは音楽という言葉は同じでも、もっと細かく微分化された音楽の区別を通せばまるで違うことがほどなく明らかにされる違いであり、微分化され注意深く区別されることで始めてこれまで二人が交わったことなど一度もないということが可視化されるような決定的な違いである。例えば交響曲とピアノソナタは同じだろうか。全然違う。そういうことだ。

 

反復するという動作だけが同じであって、それ以前にまず違いがある。ほんの僅かな違いであれ、違っていれば鼻から違う。にもかかわらずただ単に似ているというだけで、それを根拠に両者を同一視することはできない。かつてスワンがオデットを相手に起こったことが、今度、アルベルチーヌを相手として<私>に起こった。何が起こったのか。それは人間をその奥底から衝き動かす「死の本能」=反復という不可避的な動きのみであり、反復に注目すべきなのであり、<私>とスワンとが似ているという粗雑で無神経な推測に過ぎない話とは全然別のことだ。

 

スワンは嫉妬の苦痛を引き延ばしていくことで決済を延々先送りしていく。逆に<私>の場合、アルベルチーヌによる切断は別の価値体系への接続を<私>にもたらす。<時の女神>アルベルチーヌは年齢性別人種国籍のすべてを超える「生の本能」だけでなく、よりいっそう根源的な「死の本能」を司ってもいるのだ。