白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/変容する狐3

2021年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

妖怪〔鬼・ものの怪〕に取り憑かれたと思われる病人が出た。当時の風習通り霊媒師を呼んでその妖怪〔鬼・ものの怪〕を病人から霊媒師に乗り移らせたところ、霊媒師は語った。自分は狐であると。とはいえ、何も祟りに出てきたわけではない。この辺りにはごく普通に食物が散らばっているだろうと思って家の中を覗き込んでいたら、病気平癒のための加持祈祷が行われていて、たまたまその病人の中へ閉じ込められてしまったというわけ。

「己(おのれ)ハ狐也。祟(たたり)ヲ成シテ来(きた)レルニハ非(あら)ズ。只、此(かか)ル所ニハ自然(おのづか)ラ食物(くひもの)散(ちり)ボフ物ゾカシト思(おもひ)テ、指臨(さしのぞき)テ侍ルヲ、此ク被召籠(めしこめられ)テ侍ル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.166」岩波書店)

そういうと、狐が乗り移った状態の霊媒師は懐(ふところ)から小さな蜜柑ほどの大きさの白い玉を取り出し、ぽんと投げ上げてまた手玉に取って見せた。「白キ玉」は狐の妖怪〔鬼・ものの怪〕が身に持つとされる魔法の宝のこと。

「懐(ふところ)ヨリ、白キ玉ノ小柑子(こかんじ)ナドノ程ナルヲ取出(とりいで)テ、打上(うちあげ)テ玉ニ取ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.166」岩波書店)

不可解なことだが、もしかしたら霊媒師がもともと懐の中に入れていたただ単なる玉を取り出して芸の一つなりと披露してみただけのことかもしれない。試しに取り上げてみようと、また「白キ玉」が投げ上げられた瞬間、若い侍が横からひょいと手を出してその玉を奪い取った。すると霊媒師に憑依した狐の態度がたちまち豹変した。そしていう。なんて酷いことをする人だ、返してほしいと。侍が無視して見せていると遂に狐は泣き出して懇願し出した。その白い玉はあなたが持っていても何の良いこともない。でもわたしがそれを失くしてしまえばわたしにとっては大打撃です。もし返してくれなかったらわたしはあなたにとって未来永劫に渡る怨敵となりましょう。けれども返してくれたら、逆に未来永劫に渡っていつもあなたに付き添ってあなたに襲いかかってくるだろう苦難から守り抜いてみせましょうと。

「其ノ玉返シ不令得(えしめ)ズハ、我レ、和主ノ為に永ク讎(あた)ト成(な)ラム。若(も)シ返シ令得(えしめ)タラバ、我レ、神ノ如クニシテ和主ニ副(そひ)テ守(まも)ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.166」岩波書店)

周囲の人々はそう言われても本当かどうかわからない。重ね重ね尋ねてみたところ狐はいう。「努々(ゆめゆめ)虚言(そらごと)不為(せ)ズ」と。「嘘偽りなし。さらにわたしのような動物は恩義をけっして忘れない」。そして今言ったことは神懸けてきっと誓うと約束した。若い侍は自分が白い玉を持っていてもただ単なる意地悪でしかないとも思い、狐に返してやった。狐はたいそう喜んだ。そこで霊媒師に憑依した狐は加持祈祷の者に追い出されてたちまち去っていった。見ていた人々は霊媒師の衣服を改めてみたところ、白い玉は始めから持っていたわけではなく、どういう方法でかわからないけれども明らかに狐が自然に取り出したものだと判明した。

それからしばらく経った或る日のこと。その時の若い侍が何かの用向きで太秦(うづまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)まで行ってきた。太秦広隆寺は現・京都市右京区蜂岡町にある寺院。例えば「太秦(うづまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)」へ参詣に出かける場合、省略して「太秦に参る」と書かれていれば意味は通じる。辺りが暗くなり出した頃、境内を出た侍は大内裏まで戻ってきた。すっかり夜になった。大内裏の中を通り抜けて帰宅しようと一人で歩いていた。応天門〔大内裏の正庁にあたる八省院(はっしょういん)=朝堂院(ちょうどういん)の正門〕の前を通り過ぎようとした時、何やらぞっとする殺気が漂っているのを感じた。身の危険を察した侍は思い出した。そう言えばこの前、白い玉を返してやったら、おれのことをずっと守ってくれると誓った狐がいたっけな。どれ、と考え「狐、狐」と声を出して呼んでみた。すると「こんこん」と鳴き声が返り狐が出現してすっかりその姿を現わした。

「夜ニ入(いり)テゾ内野(うちの)ヲ通(とほり)ケルニ、応天門(おうてんもん)ノ程ヲ過(すぎ)ムト為(す)ルニ、極(いみじ)ク物怖(ものおそろ)シク思(おぼ)エケレバ、何(いか)ナルニカト怪(あやし)ク思フ程ニ、『実(まこと)ヤ、我レヲ守ラムト云(いひ)シ狐有(あり)キカシ』ト思ヒ出(いで)テ、暗キニ只独(ひと)リ立(たち)テ、『狐、々』ト呼(よび)ケレバ、『コウコウ』ト鳴(なき)テ出来(いできた)リニケリ。見レバ、現(あらは)ニ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.167」岩波書店)

若い侍はいう。おお、そなたか。嘘偽りではなかったのだな。ありがたいことだ。そこで相談だが、いつも通りに応天門の前を過ぎようとしていたのだが、何かただならぬ空気が漂っているようだ。ちょっと一緒に送ってくれないかと。すると狐はわけ知り顔で侍を振り返り振り返りしながら先に立って歩いていく。付いていけばいいのだろうと後ろを歩いていくことにした。いつも通る道なのだが狐は一旦立ち止まり背を低くかがめて音を立てないよう気を付けながら振り返ってみせる。侍も狐を真似て背を低くかがめ音を立てないよう慎重に歩く。するとまだ他に人間がいる様子だ。

「狐、聞知顔(ききしりがほ)ニテ見返々々(みかへるみかへる)行(ゆき)ケレバ、男、其ノ後(しり)ニ立(たち)テ行(ゆ)クニ、例ノ道ニハ非(あら)デ異道(ことみち)を経テ行々(ゆきゆき)テ、狐立留(たちと)マリテ、背ヲ曲(かがめ)テ抜足(ぬきあし)ニ歩(あゆみ)テ見返ル所有リ。其ノママニ、男モ抜足に歩(あゆみ)テ行ケバ、人ノ気色(けしき)有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.167~168」岩波書店)

狭い垣根越しにそっと覗いてみると、ものものしく武装した数名の盗人が襲撃計画を練って押し入ろうと密談している最中。そこは侍が大内裏を横切る時にいつも通っている所であり、狐が通ったのもその道。ただすぐそばの狭い垣根越しに背を低くかがめ音を立てずに案内しながら通ったわけで、武装した盗人に気づかれないだけのこと。今で言えば、国会議事堂の正門と議事堂本体の建物との間はだだっ広い敷地が広場になっているため横切ろうと思えば横切れるように出来ている。平安時代も中後半になると、そこら辺は設置された垣根がさらに荒れた庭のように放置されたままになっている箇所が増えてきていた。後半になると「八省院(はっしょういん)=朝堂院(ちょうどういん)」自体が荒れてきて重要な行事がまともに開けず、議場を内裏の紫辰殿(ししんでん)に移して行うようになっていた。その逆に平穏無事な時期には熊楠が「《摩羅考》について」の中で取り上げている「今昔物語・巻第二十八・弾正弼源顕定、出摩羅被咲語 第二十五」のような笑話もあった。以前その笑話を取り上げた際、狐の恋情についても述べた。下をクリック↓

弾正弼源顕定、出摩羅被咲語

狐は侍にも背を低くかがめて音を消し隠れながらいつもの通路をそっと行き過ぎることで、垣根ごしにわざと事情がわかるよう案内したに違いない。そして武装した盗人らのすぐそばを通り抜けたところで不意に狐の姿は消え失せた。侍は無事に家に帰ることができた。

「其ノ道ヲバ経テ迫(はさま)ヨリ将(ゐて)通ル也ケリ。『狐、其レヲ知(しり)テ、其ノ盗人ノ立テル道ヲバ経タル』ト知(しり)ヌ。其ノ道出畢(いではて)ニケレバ、狐ハ失(うせ)ニケリ。男ハ平(たひら)カニ家ニ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.168」岩波書店)

そもそも白い玉は狐自身の所持品である。それはそれとして或る時この狐は誤って無関係な人間に取り憑いてしまった。さらに僧侶の加持祈祷が始まってしまい、誤解を解こうにも解けない状態のまま無関係な人間の中に監禁された状態に立ち至って困ってしまっていた。霊媒師がやって来たのでその姿を借りて十八番の「お手玉」を披露して見せ、本当に狐だと証明したはずがこれまた疑われてしまい大切な玉を取り上げられた。誤解に誤解が重なりどうしようもなくなったため、若い侍に向けて神懸けた誓いの約束で結んだ。事情が混み入ってこんがらがった結果なので狐ばかり一方的に悪いとは決していえないわけだが、そのような場合でも普段なら狐の妖怪〔鬼・ものの怪〕として追い払われるか殺されるところを救ってくれたので狐は恩義を忘れず若い侍の守護神として見えないところからいつも見守ってくれるようになった。狐はまかり間違っても政治家では決してないしそもそも政治など知らない。獣である。獣の中でも古くから霊力を持つ動物の一つと称されてきた狐ゆえ、恩返しもまた確実なのだ。

「此レヲ思フニ、此様(かやう)ノ者ハ、此(か)ク者ノ恩ヲ知リ虚言(そらごと)ヲ不為(せ)ヌ也ケリ。然レバ、自然(おのづか)ラ便宜(べんぎ)有テ可助(たすくべ)カラム事有ラム時ハ、此様(かやう)ノ獣(けもの)ヲバ必ズ可助(たすくべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四十・P.168」岩波書店)

小蛇が童女姿で現われて、小蛇を助けてくれた貧乏男性を竜宮城へ案内し、特別製の土産を持たせて帰してくれたように。

「年十二、三許(ばかり)の女の形(かた)ち美麗なる、微妙(みみょう)の衣(きぬ)・袴を着たる、来(きた)り会へり。男此れを見て、山深く此れ値(あ)へれば、奇異也と思ふに、女の云(いわ)く、『我れは、君の心の哀れに喜(うれし)ければ、其の喜(よろこ)び申さむが為(ため)に来(きたれ)る也』と。男の云く、『何事に依(より)て喜びは宣(のたま)はむぞ』と。女の云く、『己(おの)れが命を生(い)け給へるに依(より)て、我れ父母(ぶも)に此の事を語(かたり)つれば、〈速(すみやか)に迎へ申せ。其の喜び申さむ〉と有(あり)つれば、迎(むかえ)に来(きた)れる也』と。男、『此(こ)は有(あり)つる蛇(へみ)か』と思ふ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十五・P.351」岩波文庫)

ただ、動植物による恩返しの場合、先に竜宮城を見せたり金銀の入った謎の箱を手渡したりはしない。要するに気持ちの問題であって、あらかじめ見返りを求めて恩義を押し付けるような野暮なことはしない。人間のように無数の語彙を持っているわけでは全然ないにもかかわらず、むしろそれゆえに、動植物による恩返しは存続してきたのである。今もしている。牛馬犬猫魚介類なしに人間社会はもとより資本主義そのものでさえ存続することはできないし、また資本主義社会は彼らと共にという条件のもとで始めて出現し存続することも可能なのだ。どれほど高度なテクノロジーが開発されたとしても人間の労働力商品なしに剰余価値の生産は不可能であるように。剰余価値の生産が不可能になればその瞬間、資本主義は死滅する。

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熊楠による熊野案内/変容する狐2

2021年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

京の都で雑役を務める無位の役人=「雑役男」(ざふしきをのこ)がいた。或る日の夕暮れ時、何か急用が出来たようで、その妻が一人で外へ出かけた。周囲はもう暗くなりかけている。黄昏時(たそがれどき)に当たる。柳田國男はいっている。

「黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)という所の民家にて、若き娘梨(なし)の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音(ちいん)の人々その家に集りてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆(ばば)が帰って来そうな日なりという」(柳田國男「遠野物語・八」『柳田國男全集4・P.18~19』ちくま文庫)

夫(雑役男)は待っていたが妻はなかなか戻ってこない。遅いので何かあったのではと思っているとやがて家に帰ってきた。しばらくする今度は妻と瓜二つの女性がやって来た。夫の目からどこをどう見ても妻が二人いるように見える。奇怪に思った夫は二人の女性のうち一人は妻に化けた狐に違いないと考えた。そこでおそらく後からやって来た女性の側が狐だろうと考え太刀を取り出して斬り殺そうと身構えた。すると妻は「なぜ私を斬ろうなどと。どんな理由があってのことでしょう」と言って泣き出した。夫は次に先に帰ってきた妻に向かって刀を向けて斬ろうとした。今度もまた、なぜそのようなことをするのですかと泣き出されてしまった。

「男、大刀(たち)ヲ抜(ぬき)テ、後ニ入来タリツル妻ニ走リ懸(かか)リテ切ラムト為(す)レバ、其ノ妻、『此(こ)ハ何(い)カニ、我レヲバ此(かく)ハ為(す)ルゾ』ト云(いひ)テ泣ケバ、亦、前(さき)ニ入来タリツル妻ヲ切ラムトテ走懸(はしりかか)レバ、其(そ)レモ亦(また)手ヲ摺(すり)テ泣キ迷(まど)フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十九・P.164~165」岩波書店)

夫は考えあぐねてしまう。しかしとにかく、先に帰ってきた妻の側がどうも怪しいと思われたので、ぐいと捕えたまま様子を見ていた。と、その女性は夫目がけて瞬時に勢いよく小便をぶっかけた。この世のものとは到底思われない悪臭を放っている。余りの臭さに手を離してしまった。その隙を突いて女性はたちまち狐の姿に変身、小口の隙間から道路に飛び出すや「こんこん」と鳴きながら逃げ去って行った。

「然レバ、男思ヒ繚(あつかひ)テ、此彼(とかく)騒グ程ニ、尚(なほ)、前ニ入来タリツル妻ノ怪(あやし)ク思(おぼ)エケレバ、其レヲ捕(とら)ヘテ居タル程ニ、其ノ妻、奇異(あさまし)ク臭(くさ)キ尿(ゆばり)ヲ散(さ)ト馳懸(はせかけ)タリケレバ、夫、臭サニ不堪(たへ)ズシテ打免(うちゆるし)タリケル際(きは)ニ、其ノ妻忽(たちまち)ニ狐ニ成(なり)テ、戸ノ開(あき)タリケルヨリ大路ニ走リ出(いで)テ、『コウコウ』ト鳴(なき)逃去(にげさり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十九・P.165」岩波書店)

なお、妖怪〔鬼・ものの怪〕特有の強烈な「臭い」については前回も取り上げたように「牛頭」の鬼のケースが有名。

「夜半(やはん)に成ぬらむと思ふ程に、聞けば、壁を穿(うがち)て入る者有り。其の香(か)極(きわめ)て臭し。其の息、牛の鼻息を吹き懸(かく)るに似たり。然れども、暗(くら)ければ、其の体(すがた)をば何者(なにもの)と不見(みえ)ず。既に入り来(きたり)て、若き僧に懸(か)かる。僧大(おお)きに恐(お)ぢ怖(おそ)れて、心を至して法花経(ほけきよう)を誦(じゆ)して、『助け給へ』と念ず。而るに、此の者、若き僧をば棄(す)てて、老たる僧の方(かた)に寄(より)ぬ。鬼、僧を爴(つか)み刻(きざみ)て忽(たちまち)に噉(くら)ふ。老僧(おいたるそう)、音(こえ)を挙(あげ)て大きに叫ぶと云えども、助くる人無くして、遂(つい)に被噉(くらわれ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十七・第四十二・P.358」岩波文庫)

原文を見ると、例によって例のごとく、仏教説話にありがちな当たり障りのない教訓で終わっている。二人の女性を両方とも縛り付けて放置しておけばどちらかが我慢しきれず狐の正体を現わしたはずなのに、早る気を抑えないままなぜ刀など抜いて脅してしまったのかと。

「暫(しばら)く思ヒ廻(めぐら)シテ、二人ノ妻ヲ捕ヘテ縛(しば)リ付(つけ)テ置(おき)タラマシカバ、終(つひ)ニハ顕(あらは)レナマシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十九・P.165」岩波書店)

前回取り上げた説話同様、妖怪〔鬼・ものの怪〕は刀の刃を怖れると言われていた頃の話である。また「牛頭」の鬼の場合は法華経が効果を発揮するとされている。刀剣と仏教経典。いずれも外来のもので高貴な人々の間で信仰対象の上位に位置づけられるに至った経緯を持つ。そしてそれらによってもともと列島各地にいた先住民並びに太古の昔からその土地に根付いていた種々様々な土着の信仰はどんどん山間部へ追い込まれていった歴史がある。ところが彼らはしばしば都の真ん中に忽然と姿を現わし、或る時は悪戯(いたずら)っ子のように振る舞い、また或る時は都に住む人間を誘拐し去った。そしてまた狐でなくとも妖怪〔鬼・ものの怪〕は真夜中の大内裏へ堂々と出現し、若い女性の手足をばらばらにし胴体だけを消滅させるという殺人事件を起こし、わざわざ披露して見せている。しかし、狐が時々都の真ん中まで出没するようになったのはどうしてなのか。芥川龍之介「芋粥」(いもがゆ)の元種として有名な「今昔物語」所収「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」。原文でも狐の活躍が描かれている。

藤原利仁(としひと)が若かった頃、或る大臣に長く仕えている五位侍(ごゐさぶらひ)が一度暑預粥(いもかゆ)を思い切り食ってみたいものだと嘆息するのを聞いた。それならいいところがあるので連れて行って差し上げようと誘った。粟田口(あはたぐち)から都を出て山科(やましな)を通り過ぎ逢坂山の関を越え近江国の三井寺までやって来た。五位侍は利仁にまだ着かないのかなと尋ねてみた。すると利仁はいう。実をいえば目的地は越前国の敦賀にあると。到着すればすぐ食えるよう先に伝令を送っておくことにしましょう。利仁はそう言って馬を進め、「三津(みつ)ノ浜」(現・滋賀県大津市下阪本の琵琶湖に面した船着場)に差し掛かった辺りで一疋の狐を捕えた。そして狐に向かって命じる。所用で敦賀に行く途中なのだが客が一人同行するので、高島(現・滋賀県高島市)付近で二人分の馬に鞍を置いて準備して待っておくよう先に敦賀の館まで走って行って要件を伝えておいてくれまいかと。すると狐は承知したようで何度かこちらを振り返って見ていたかと思うとまたたく間に走り去った。

「然(さ)テ行(ゆく)程ニ、三津(みつ)ノ浜ニ狐一ツ走リ出(いで)タリ。利仁、此(これ)ヲ見テ、『吉使(よきつかひ)出来(いでき)ニタリ』ト云テ、狐ヲ押懸(おしかく)レバ、狐、身ヲ棄(すて)テ逃(にぐ)トイヘドモ、只責(せめ)ニ被責(せめられ)テ、否不逃遁(えにげのがれぬ)ヲ、利仁、馬ノ腹ニ落下(おちさがり)テ、狐ノ尻ノ足ヲ取(とり)テ引上(ひきあげ)ツ。乗(のり)タル馬、糸賢(いとかしこ)シト不見(みえね)ドモ、極(いみじ)キ一物(いちもつ)ニテ有ケレバ、幾(いくばく)モ不延サ(のばさず)。五位、狐ヲ捕ヘタル所ニ馳着(はせつき)タレバ、利仁、狐ヲ提(ひさげ)テ云ク、『汝(なむ)ヂ狐、今夜(こよひ)ノ内ニ、利仁ガ敦賀ノ家ニ罷(まかり)テ云(いは)ム様(やう)ハ、俄(にはか)ニ客人(まらうと)具(ぐ)シ奉(たてまつり)テ下ル也。明日ノ巳時(みのとき)ニ、高島(たかしま)ノ辺(わたり)ニ男共(をのこども)迎ヘニ、馬二疋(ひき)鞍置(おき)テ、可詣来(まうできたるべし)ト。若(もし)此(これ)ヲ不云(いはず)ハ、汝(なむぢ)狐、只試(こころみ)ヨ。狐ハ変化(へんぐゑ)有(ある)者ナレバ、必ズ今日ノ内ニ行着(ゆきつき)テイヘ』トテ放(はな)テバ、五位、『広量(くわういやう)ノ御使哉(つかひかな)』トイヘバ、利仁『今御覧(ごらん)ゼヨ。不罷(まから)デハ否有(えあら)ジ』ト云(いふ)ニ合(あはせ)て、狐、実(まこと)ニ見返々々(みかへるみかへる)前(さき)ニ走テ行(ゆく)、ト見(みる)程ニ失(うせ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十七・P.70~71」岩波書店)

二人は一日かけて敦賀へ到着。案内されて暑預粥(いもかゆ)を堪能した五位侍は喜悦の絶頂。それを見ていた利仁は向かい側の家の軒から一疋の狐がそっと覗いているのを見つける。昨日伝令に遣わした狐だと見た利仁は周囲の者に命じてあの狐に食べ物を与えてやれという。狐に食事を差し出してやるとぱくぱく平らげた。そしてすぐその場を去って行った。

「而(しか)ル間、向(ぬか)ヒナル屋(や)ノ檐(のき)、狐指臨(さしのぞ)キ居タルヲ、利仁見付テ、『御覧ゼヨ、昨日ノ狐ノ見参(げんざん)スルヲ』トテ、『彼(か)レニ物食(くは)セヨ』ト云へば、食ハスルヲ打食(うちくひ)テ去(さり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十七・P.74」岩波書店)

要するに問題は食料事情である。狐は普段、そう簡単に人間の住む里の路上へやって来て無防備な姿を見せながらうろうろしたりはしない。それが三津浜の船着場まで出てきている。食糧難は里ばかりでなく猿や狐や鹿が住む山間部で同時に起こる。さらに狐はなぜ「下阪本」と「高島」との境界線で出現したのか。比叡山と比良山との境界線は特に雪の降り始める季節の朝方などにはっきりわかるが、琵琶湖を挟んで西岸に当たる今の大津市からはよくわからないけれども、東岸に当たる今の草津市や守口市から見れば、比叡山はまだ黒々とした森林がうずくまった山容を湛えているばかりでしかないにもかかわらず比良山はすっかり雪を冠した白銀の山岳地帯に映って見える。そして比良山の麓には古来、道祖神として、また塞神(さえのかみ)として信仰されてきた白髭神社がある。そこが近江国の中にありながら、京の都の風土と越前・越中・越後へ続く北国独特の風土とを東西に横切る境界線ゆえ、狐が登場して先に伝令として活躍するにふさわしい場は三津浜辺りに絞られてくるのである。

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熊楠による熊野案内/変容する狐1

2021年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は「燕石考」の中で、全然関係のない事物同士の類似による誤解と唯一の原因という錯覚から、本来見るべき《原因の多数性》という事情が覆い隠されてしまうという事実を暴いてヨーロッパの専門誌で高く評価された。同時に古代から中世にかけて日本に出没する妖怪〔鬼・ものの怪〕が、自由自在に姿形を置き換えていく変態性と同様の事態として捉えることに関心を寄せていた。そして前回、熊楠が粘菌(隠花植物)の生態や古典文献に描かれた妖怪〔鬼・ものの怪〕に見た変態性に関し、熊楠なき今振り返ってみると、諸商品と化して自由自在に姿形を置き換えていく変態性はそれこそ《貨幣》とまるで同じだと述べた。だからといって粘菌(隠花植物)は貨幣ではないし妖怪〔鬼・ものの怪〕も貨幣ではない。ただ、怖ろしく似ているばかりかもはや《貨幣のようだ》と言っていいほど考察できるところまでたどり着いたに過ぎない。さらに妖怪〔鬼・ものの怪〕の特徴として自由自在に姿形を置き換えていく変態性が書かれている条々について触れていこう。

舞台は少し前に取り上げた「武徳殿(ぶとくでん)ノ松原(まつばら)」=「宴(えん)ノ松原(まつばら)」。こう説明した。

今の京都市上京区を東西に通る出水通と南北に通る千本通との交差点をやや西側へ入った付近に「武徳殿(ぶとくでん)ノ松原(まつばら)」=「宴(えん)ノ松原(まつばら)」と呼ばれる場所があった。大内裏の中の「武徳殿、真言院(しんごんいん)、大歌所(おおうたどころ)」に囲まれただだっ広い広場のような場所で敷地面積はその西に位置する「内裏」(だいり)と同じほど。武術や競馬が行われていたようだが、内裏とほぼ同じ面積であることから、あるいは内裏の代替地として確保されていた可能性が指摘されている。かつてそこは妖怪出没地として有名だった。

またところどころに松が植えてあり、密生しているわけではないものの、そこそこの松原として男女が出会い恋愛について語り合う密会の場でもあった。次に述べる説話も「宴(えん)ノ松原(まつばら)」付近で発生した。

平安時代、「幡磨(はりま)ノ安高(やすたか)」という近衛舎人(このゑのとねり)がいた。本来、近衛府は宮中守護・皇族警備を主として創設された役職(今でいう警視庁に近い)。だから武具を身に付けてはいるものの、時代を降るに連れて本格的な武士階級の台頭のため、宮廷人の邸宅や年中行事で行われる神楽〔演舞・奏楽〕が主な任務に変わっていく。余りにも歌が巧みなのでそれを悦んだ山神に魂を持って行かれて死んだ舎人の話は以前「巻第二十七・近衛舎人、於常陸国山中詠歌死語・第四十五」を引用して述べた。しかしここで登場する「近衛舎人・安高(やすたか)」は武術に秀でていた人物。安高の父は「右近(うこん)ノ将監(しやうげん)」(天皇周辺の現場指揮官)を務めた「幡磨(はりま)ノ貞正(さだまさ)」。

月がとても明るい九月二十日の夜。安高は西の京の家へ戻ろうと大内裏の中を歩いて横切り「宴(えん)ノ松原」の辺りに差し掛かったところ、少女が身に付ける服装をまとった人の姿が目に入った。月影に照らし出されたそれは大変美しい。

「夜(よ)打深更(うちふけ)テ、宴(えん)ノ松原ノ程ニ、濃キ打(うち)タル袙(あこめ)ニ、紫菀色(しをんいろ)ノ綾(あや)ノ袙重ネテ着タル女(め)ノ童(わらは)ノ、前(さき)ニ行ク様体(やうだい)・頭(かしら)ツキ、云ハム方無ク月影ニ映テ微妙(めでた)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.162」岩波書店)

安高は近づいて声を掛けながら女性に触れて誘ってみる。女性からは実に高貴な「薫(たきもの)ノ香(かほり)」が立ちのぼった。原文に、安高は「触這」(ふればふ)とある。女性の体型に沿って手を這わせる露骨な性的誘惑。今ならまったくのセクハラか痴漢行為に当たるが当時はそれが遊び目的の軟派方法としてごく普通だった。女性は言う。「あなたはわたしのことをご存知ないはずだし、わたしはあなたのことを存じ上げません。ーーーどうしようかな」と。

安高は思う。近頃すぐそばの「豊楽院(ぶらくゐん)ノ内」に妖魔めいた狐(きつね)が棲みついているとか。もしかしてこれが、と。ちなみに「豊楽院(ぶらくゐん)は「八省院(はっしょういん)」=「朝堂院(ちょうどういん)」のすぐ西に位置する饗宴(節会のための宴会、競馬など)が行われる場所。「八省院(はっしょういん)」=「朝堂院(ちょうどういん)」は即位式・大嘗会など、より重要な大礼が行われる場所で大内裏正庁にあたり、その正殿が大極殿(だいごくでん)。

それはそうと若い女性(十三、四歳くらい)は屈託のない愛嬌たっぷりな声で話してはいるが、一方、絵が描かれた扇で顔のほとんどを隠したまま恥ずかしがる風情で安高を誘惑するばかり。どこか怪しい。少しびっくりさせて正体を探ってみるかと安高は考える。

「豊楽院(ぶらくゐん)ノ内ニハ人謀(たばか)ル狐有(あり)、ト聞クゾ。若(も)シ、此レハ然(さ)ニモヤ有ラム。此奴(こやつ)恐(おど)シテ試(こころ)ム。顔ヲヅブト不見(み)セヌガ怪(あやし)キニ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.163」岩波書店)

安高はいきなり打って変わった様子を見せていう。おれは実は引剥(ひきはぎ)だ。そのいやらしく汚らわしい服をむき出しに剥ぎ取ってやる。と言うや否や女性の着物の紐を解いて引き下ろし肩をむき出しにさせ、冷え冷えとした刀を頸(のど)にぴたりと押し付けた。さらにその、余りにも卑猥な頸(くび)をすっぱり斬り落とすぞ、着ている服をとっととこちらに寄こせ、と言いながら女性の髪の毛を鷲づかみにして強引に引きずり傍の柱にびしりと押し付けた。と、その時女性は、安高目掛けてたとえようのない臭い小便を勢いよくぶっかけた。安高が思わずひるんだ隙に女性は瞬時に狐に変身した。そして「こんこん」と鳴きながら今の二条城辺りから大宮通を北の方角へ一目散に走り去った。

「『実(まこと)ニハ、我レハ引剥(ひきはぎ)ゾ。シヤ衣(きぬ)剥(はぎ)テム』ト云フママニ、紐(ひも)ヲ解(とき)テ引編(ひきかたぬ)ギテ、八寸許(ばかり)ノ刀ノ凍(こほり)ノ様(さま)ナルヲ抜(ぬき)テ、女ニ指宛(さしあて)テ、『シヤ吭(のど)掻切(かききり)テム』ト、『其ノ衣(きぬ)奉(たてまつ)レ』ト云(いひ)テ、髪ヲ取テ柱ニ押付(おしつけ)テ、刀ヲ頸(くび)ニ指充(さしあて)ツル時ニ、女、艶(えもいは)ズ臭(くさ)キ尿(いばり)ヲ前ニ散(さ)ト馳懸(はせか)ク。其ノ時ニ、安高驚(おどろき)テ免(ゆる)ス際(きは)ニ、女忽(たちまち)ニ狐ニ成テ、門(もん)ヨリ走リ出デテ、『コウコウ』ト鳴(なき)テ、大宮登(のぼり)ニ逃テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.163」岩波書店)

妖怪〔鬼・ものの怪〕特有の強烈な「臭い」については以前取り上げたように「牛頭」の鬼のケースが有名。

「夜半(やはん)に成ぬらむと思ふ程に、聞けば、壁を穿(うがち)て入る者有り。其の香(か)極(きわめ)て臭し。其の息、牛の鼻息を吹き懸(かく)るに似たり。然れども、暗(くら)ければ、其の体(すがた)をば何者(なにもの)と不見(みえ)ず。既に入り来(きたり)て、若き僧に懸(か)かる。僧大(おお)きに恐(お)ぢ怖(おそ)れて、心を至して法花経(ほけきよう)を誦(じゆ)して、『助け給へ』と念ず。而るに、此の者、若き僧をば棄(す)てて、老たる僧の方(かた)に寄(より)ぬ。鬼、僧を爴(つか)み刻(きざみ)て忽(たちまち)に噉(くら)ふ。老僧(おいたるそう)、音(こえ)を挙(あげ)て大きに叫ぶと云えども、助くる人無くして、遂(つい)に被噉(くらわれ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十七・第四十二・P.358」岩波文庫)

逆も言える。自分たちとは違った異臭を放つ物ゆえにあえて「妖怪〔鬼・ものの怪〕」とされたのかもしれない。先住民や移民らはまだまだ都のすぐ近くに出没していた時代である。「体臭」の違いが朝廷側とそれ以外の勢力とを区別する基準の一つだったのかもしれない。ふだん何を食しているか。それによって自然と体臭や息の匂いは違ってくる。それによって生活様式の違いもまた判別できたのだろう。平安時代はまだなお多くの異民族たちとの共存状態が続いていたことを物語形式で残しておくべき何らかの必要性があったかと考えられる。

また、安高の言葉なのだがこう言っている。「若(も)シ人ニヤ有ラムト思(おもひ)テコソ、不殺(ころさ)ザリツルニ」。試しに脅してみて本当に人間だったら殺さなかったのに、狐だとわかっていたら必ず殺してやっていたところだ。小便をふっかけられてひるんでしまい惜しいことをしたと。若い女性の衣服を肩まですっかり露わにして動けぬように柱に押し付けておいて、本当に人間だったらどうしたと言いたいのだろうか。しかし狐だと見抜けなかったとしたら逆に殺されていたに違いない。真夜中の「宴(えん)ノ松原」にほいほい出かけて愛の語らい場所にしていた当時の若い貴族らもそうだ。この時の安高の強引な振る舞いにしてもまたそうだ。正体不明の妖怪出没地として有名なのは確かだったのだろう。けれども平安時代後半というのは、ただ単に「妖怪〔鬼・ものの怪〕」に殺されるとかいった類の話ばかりでなく、敗北者の側は常に「妖怪〔鬼・ものの怪〕」と見なされる政治構造が延々と続いていく説話が少なくない。この種の説話はそのほんの先駆けでしかない時代だったのだろう。歴史書を見るとなるほど狐は早くから農耕稲作文化の守護神になっている。しかし農耕稲作を営まない狩猟・漁撈を主とする人々にとって狐は必ずしも稲作だけのための守護神である必要はない。むしろ特に山間部で暮らす人々にとっては自分たちのトーテムあるいは山の神として信仰されていたかもしれない可能性を排除することはできない。

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熊楠による熊野案内/変身・徘徊・モノノケの色

2021年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は「通り悪魔」伝説についてこう述べた。

「山崎美成の『世事百談』にこのことを記せり。いわく、『前略、ふと狂気するは、何となきに怪しきもの目に遮ることありて、それに驚き魂を奪われ、思わず心の乱るるなり。俗に通り悪魔に逢うと言う、これなり』とて、むかし川井某なる士、庭前を眺めたりしに、縁前の手水鉢下の葉蘭叢中より、焔三尺ばかり、その煙盛んに上るを不審に思い、刀、脇差を別室へ運ばしめ、打ち臥して気を鎮めて見るに、焔の後方の板塀の上より乱髪白襦袢着たる男躍び降り、槍打ちふり睨む。心を臍下に鎮め、一睡して見れば焔、男、ともになし。尋(つ)いで隣宅の主人発狂し、刃を揮い譫語(うわごと)したり。また四谷辺の人の妻、類焼後留守しおりたるに、焼場の草葉の中を、白髪の老人杖にすがり、蹣跚(まんさん)して笑いながら来たるさま、すこぶる怪し。彼女心得ある者にて、閉眼して『普門品』を誦し、しばらくして見ればすでに消え失せぬ」(南方熊楠「通り魔の俗説」『南方民俗学・P.273~274』河出文庫)

前者の武士の場合、落ち着いて平常心を取り戻すことで眼前に出現した「通り悪魔」は消え去ってしまう。後者の女性の場合、火災で消滅した家のあった場所から狂乱した白髪の老人が忽然と出現したのを見て、法華経の中にある大火から身を守る箇所をひたすら誦することに専心しているうちに狂乱して襲いかかってきそうに見えた白髪の老人の姿を消し去ることに成功した。

「若有持是 観世音菩薩名者 設入大火 火不能燒 由是菩薩 威神力故

(書き下し)若しこの観世音菩薩の名(みな)を持(たも)つもの有らば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能わず、この菩薩の威神力(いじんりき)に由るが故なり」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.242」岩波文庫)

いずれにしても平常心を取り戻すことによって幻覚・妄想から解放されたわけだ。武士の場合は文字通り武士にとっての基本的平常心。民間の女性の場合は信心していた仏教の一節に専心することで。武士道がいいのか仏教がいいのかというのは問題外であって、ただ落ち着いて常日頃の精神状態を取り戻すことが大事だっただけに過ぎない。

ところが武士道や仏教を用いても反応がなく、消し去ることが出来ない妖魔は当然いた。妖怪〔鬼・ものの怪〕の世界は人間世界よりもずっと広いのである。そんな時は陰陽師が呼ばれるのが常だった。

その昔、「東三条殿(ひがしさんでうどの)」と呼ばれる邸宅があった。大内裏の東南方面に位置していた。今の京都市中京区押小路通(おしのこうじどおり)と釜座通(かまんざどおり)との交差点付近。邸宅は広大で今の上松屋町(かみまつやちょう)から下松屋町(しもまつやちょう)にかけて庭に池をたたえる寝殿造の建物だった。邸宅の主人は「式部卿(しきぶのきやう)ノ宮」=「重明(しげあきら)親王」。

南庭の築山に身長約九十センチ程でやや肥えた体型の「五位(ごゐ)」が時々出現してうろうろ徘徊するようになり親王は不審に思った。五位姿の徘徊はいよいよ度重なってきたからである。

「南ノ山ニ長(たけ)三尺許(ばかり)ナル五位(ごゐ)ノ太リタルガ、時々行(ありき)ケルヲ、御子(みこ)見給(たまひ)テ怪(あやし)ビ給(たまひ)ケルニ、五位ノ行ク事既ニ度々(たびたび)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)

親王が不審に思ったのは、そもそも「五位(ごゐ)」身分の者が身に付ける服装の色である。当時の五位身分の服装の色は赤色や緋色と決まっており、怪奇を巻き起こす妖怪〔鬼・ものの怪〕の衣装に似通っていたから。そこで有名な陰陽師を呼んで質問することにした。陰陽師がいうには出没しているのは「物ノ気(もののけ)」のようだが別段「人ニ害ヲ可成(なすべ)キ物ニハ非(あら)ズ」とのこと。もしそうだとすればその霊の正体は何なのか。人間に害を及ぼす物でないとしたら非業の死を遂げた人間の怨霊でないに違いない。ではそれは何であってどこにいるのか。そう親王は問うた。

「其ノ霊(りやう)ハ何(いど)コニ有(ある)ゾ。亦何(なに)ノ精(たま)ノ者ニテ有ゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)

陰陽師は答える。銅製品の「精」(たま)だと思われる。邸宅の東南部分を掘り返してみてはと。

「銅(あかがね)ノ器(うつはもの)ノ精(たま)也。宮ノ辰巳(たつみ)ノ角(すみ)ニ、土ノ中ニ有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)

少し掘ってみても何も出てこない。そこで約1メートルばかり掘り返してみたところ銅製の器具が出てきた。かつては大切に取り扱われていた銅製品に違いない。時を経て忘れられていた可能性が考えられる。すっかり掘り出してみると、今の尺度でいえば約九十リットル入りで、さらに取手と注ぎ口とが付いたそこそこ立派な銅の器である。文面を見ると供養したのか再び祀ったのか説明されていないが、再び埋め戻したわけではないだろう。それ以後、庭の築山に出現した五位姿の妖怪〔鬼・ものの怪〕が徘徊することはまったくなくなった。

「五斗納許(なふばかり)ナル銅(あかがね)ノ提(ひさげ)ヲ掘出(ほりいで)タリ。其後(そののち)ヨリナム、此ノ五位行ク事絶(たえ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100~101」岩波書店)

銅製品はなるほど人間でも動植物でもない。それが人の姿へ変身して出現したのだろう、そういうことがあるのだなと。

「銅ノ提ノ、人ニ成(なり)行(ありき)ケルニコソハ有ラメ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.101」岩波書店)

人間や動植物ではない「非生物」であっても、妖怪〔鬼・ものの怪〕として五位姿に変容して辺りを徘徊する。動き出す。なるほど人間ではない。だからといってかつては必要不可欠な銅製の器として大切に取り扱われていた。不必要になってきたからかもしれないが、もはや地下1メートルの暗黒に埋め捨てられ忘れ去られようとしていたその時、突如として銅の「精」(たま)は人間姿へ変身して親王の邸宅内の権力の象徴たる広大な庭の築山をうろつき始めた。人々を取って喰おうというわけではないが、屈辱的待遇を受けて一旦妖怪〔鬼・ものの怪〕化するとそれは何にでも自由自在な姿に化けて、夜昼の別なく周囲をうろうろし始めるのだった。置かれた環境に応じた自由な変化という点で熊楠が生涯探究した粘菌の変態性に通ずる。と同時に貨幣が次々と取り換えていく変態性ととてもよく似ている。

なお、重明(しげあきら)親王は実在人物。醍醐天皇の第四皇子。学問のほか、笙・琵琶に造形が深く庭を造営するなど風雅な分野での伝説が多い。

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熊楠による熊野案内/平安京の水精(みづのたま)

2021年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
長い間、疑われずに信じ込まれてきた事情。

「粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわること(イ)やや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ’なる茎(くき)となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞囊を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れになって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するのを一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.335~337』河出文庫)

熊楠にはそれが見えた。なぜか。ニーチェはいう。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

という呪縛から逃れることができたからである。熊楠はそれを新しく「発見した」。粘菌の変態性を見出した。粘菌は死んだのではない。回帰したのだ。

今回も続けて妖怪〔鬼・ものの怪〕の特徴=変身性について見ていこう。「水精」(みづのたま)あるいは「水神」(みづのかみ)。だからといってそれはいつも神々しい童女の姿で現われるとはまったく限らない。京の都の大内裏のすぐ近く、東南の方角に「陽成院」の邸宅があった。

「陽成院(やうぜいのゐん)ノ御(おはし)マシケル所ハ、二条ヨリハ北、西ノ洞院(とうゐん)ヨリハ西、大炊(おほひ)ノ御門(みかど)ヨリハ南、油ノ小路ヨリハ東、二町(ふたまち)ニナム住(すま)セ給ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第五・P.98」岩波書店)

たいへんわかりにくい書き方なので今の住所に変換するとほぼこうなる。

京都市中京区夷川通(えびすがわどおり)小川東入東夷川通付近。北側に児童公園がある。

「陽成院」については様々な歴史研究がなされている。史上稀に見る「宮中殺人事件」の犯人か少なくとも事件関係者の中で最もそれに近い位置にいた人物として。しかしそれとこれとは関係がない。「水精」(みづのたま)が出現したのは陽成院が死んだ後、広大だった邸宅跡地に住む人間はほとんどいなくなり、「冷泉院ノ小路」を隔てて隣接する北側は住宅地になったものの、南側は荒れ果て幾つかの池などが放置されたままになっていた頃。

或る夏の日の夜。跡地の敷地に残って住んでいた人が西面する対の屋の縁側で寝ていた。するとそこへ身長九十センチ程の小さな翁(おきな)がふらりとやって来て寝ている人の顔をじっと覗き込んだ。何か来たと思いはしたが怖ろしさのあまりどうすればよいのかわからず、ともかく寝たふりをしていた。しばらくすると何もなかったかのように翁はやって来た方角へ戻っていった。その夜はとても明るい星月夜(ほしづくよ)。だから翁の姿はよく見える。どこまで行くのか目で追っていると、近くに残っている池の縁まで歩いていったところで不意に消えた。

「夏比(ごろ)西ノ台(たい)ノ延(えん)ニ人ノ寝タリケルヲ、長(たけ)三尺許(ばかり)有ル翁(おきな)ノ来テ、寝タル人ノ顔ヲ捜(さぐり)ケレバ、怪シト思(おもひ)ケレドモ、怖シクテ何(い)カニモ否不為(えせ)ズシテ、虚寝(そらね)ヲシテ臥(ふし)タリケレバ、翁和(やは)ラ立返(たちかへり)テ行クヲ、星月夜(ほしづくよ)ニ見遣(みやり)ケレバ、池ノ汀(みぎは)ニ行キテ掻消(かきけ)ツ様ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第五・P.98~99」岩波書店)

その池は手入れしなくなってからもう随分になる。浮草や菖蒲が生い繁るまま伸び放題、絡み放題で濁り果て、不気味な妖気を漂わせている。それから翁は毎晩やって来るようになった。そこで近所の知人らに相談した。話を聞かされた皆はほとんど怖気付いて尻込するばかり。が、一人の武者めいた者が名乗り出て「おれが麻縄で縛り付けて必ず捕えてやる」と意気込んでその縁側へ出かけ、寝ずに翁の出現を待つことにした。麻縄を握りしめている。陽が沈み、辺りは暗闇に包まれた。そろそろ真夜中かと思っているうちにだんだんうとうとと居眠りかけてしまった。と、ふいに顔面をひんやりと撫でるものがある。武者ははっと目覚めて気を取り直し、持っていた麻縄でとっさにその何だかわからない物をとことん縛りに縛り、縁側の高欄にびしりと縛り付けた。人を呼ぶと灯火を手に他の者らもどやどやと集まってきた。

「夜半(よなか)ハ過(すぎ)ヤシヌラムト思フ程ニ、待カネテ少シマドロミタリケルニ、面(おもて)ニ物ノ氷(ひや)ヤカニ当リケレバ、心ニ懸(かけ)テ待ツ事ナレバ、寝心(こごころ)ニモ急(き)ト思(おぼ)エテ、驚クママニ起上(おきあがり)テ捕ヘツ。苧縄ヲ以テ只縛リニ縛テ、高欄(かうらん)ニ結付(ゆひつけ)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第五・P.99」岩波書店)

灯火を照らしてよく見ると、身長九十センチ程で薄い青色の衣を着た小さな翁。とても疲れて今にも倒れそうな様子で目をしばたいている。何か聞こうと尋ねてみてもただ黙っているばかり。しばらくするといかにも力なく弱々しげな笑みを浮かべ、消え入りそうな頼りない声で「盥(たらい)に水を汲んで持ってきてくれないか」と言う。さっそく盥に水を入れて持ってきてやった。翁は盥に張られた水に映る自分の面立ちを見ていう。「我レハ水ノ精(たま)ゾ」と。言うや否や翁は盥の水の中に落ちてそのまま消え失せた。

「大キナル盥ニ水ヲ入(いれ)テ前ニ置(おき)タレバ、翁頸(くび)ヲ延(の)ベテ盥ニ向(むかひ)テ水影(みづかげ)ヲ見テ、『我レハ水ノ精(たま)ゾ』ト云テ、水ニヅブリト落入(おちいり)ヌレバ、翁ハ不見(み)エズ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第五・P.99」岩波書店)

翁の姿はどこにも見えない。ただ、少しばかりだが水の量が急に増えて盥の縁からこぼれ落ち、水面には翁を縛り付けておいた麻縄だけが結び目を見せたまま浮かんでいるばかり。水の中に解けてしまったように見える。奇怪なこともあるものだと、皆は盥の水をこぼさないよう気を付けながらそのまま抱えて池の中に戻してやった。

「然レバ、盥ノ水多ク成テ、鉉(はた)ヨリ泛(こぼ)ル。縛(しばり)タル縄ハ、被結乍(ゆはれなが)ラ水ニ有リ。翁ハ水ニ成テ解(とけ)ニケレバ失(うせ)ヌ。人皆此(こ)レヲ見テ、驚キ奇(あやしび)ケリ。其ノ盥ノ水ヲバ、不泛(こぼ)サズシテ掻(かき)テ池ニ入(いれ)テケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第五・P.99~100」岩波書店)

それ以後、翁が出現することはなくなった。だからといって、池をきれいに掃除して整え直せば今度は若い美男子が出現するかといえばそんなことはないだろう。ともすれば繁茂しやすい浮草や菖蒲で茫々に荒れ果てるほど長く放っておいたぶん、或る時、池の中から翁は唐突に出現した。放置された年月と翁の年齢とが同じだというわけでもない。池は始めの頃、月の光を照らし返すほどたいそう美しい水面を誇って人々の目を楽しませていたのだろう。それが放置され見る見るうちに荒れ果て淀んだ、不気味で無惨な姿を晒している。高貴な人々にとってわざわざ造営された庭の池とは何か。それはどこからどのように流し込まれ何のために生かされてきたのか。頼りなく疲れ弱々しい笑みを浮かべる翁の姿は、そんな手酷い扱いを受けた池の代表者として生まれ出るほかなかった、或る種の「水の精」だったに違いない。「水の精」が小さく疲れ切った翁だとはよもや誰一人として考えたことはないかもしれない。自嘲にも似た弱々しい笑み。ほんのいっときの栄華が終わればもう二度と振り向いてすらもらえないのか。人間にとって水とは。また人間社会の中へ引き込まれた水にとって水であるとはどういうことか。

水にとって「水の精(たましい)」とは何か。水はただ流れる。何万年か何億年か知らないが、水は水自身で何か考える必要などありはしなかった。それがいつからか、わざわざ人前で何か告げに出て来なくてはならなくなった。その瞬間、のそのそ歩いてきた「水の精」の姿はもはや龍神でも何でもなく逆に小人に等しいばかりか、なおかつやつれ果てて死を待つばかりの翁でしかなかった。測り知れない太古の昔から水は流れていた。だから途方もない長寿を保っている翁であって何ら構わない。しかしなぜ弱り果てていたのだろうか。この翁は或る役割として生まれたに違いない。「水の精(たましい)」としての死に際を見せること。その役割を終えたと思われたその時、翁は池まで大事に運ばれ水の中へ帰されていった。人間を道連れに引きずり込む力さえもはやなかった。

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