プルーストはア・プリオリに《乙女たち》を特権化しているわけではまるでない。まったくの幼児でもなく世俗的凡庸性に妥協することで大人の領域へ参入することを許された女性でもまたないという数年間に限られた「時」が、《乙女たち》を《乙女たち》として特権化しているのであって人為的にそうなるのではないのだ。そんな《乙女たち》はほとんどいつも見られる側であるにもかかわらず、むしろそれゆえに、あたかも貨幣にも似た無限の諸商品の系列を次々通過していく。貨幣はなぜ貨幣なのか。マルクスはいう。
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
そのような極めて限られた貴重な「時」を与えられている《乙女たち》。プルーストはさらにその特徴を列挙していく。なかでも特筆すべきは「通過してゆくときにははっきり聴きわけられてもやがて忘れ去るさまざまな楽節を明確に区別して認識できない音楽の場合のように、混沌とした」流動する<力>の「うねり」としてしか捉えなれない点。
「いまだ私は、こうした目鼻立ちのどのひとつにも、不可分な特徴としてだれか特定の少女に結びつけるには至っていない。私の目の前に(まるで異なる多様な容姿が隣りあい、ありとあらゆる色調が寄り集まって、それが目を瞠(みは)る調和を形づくってはいたが、さりとて通過してゆくときにははっきり聴きわけられてもやがて忘れ去るさまざまな楽節を明確に区別して認識できない音楽の場合のように、混沌としたこの集団が通りすぎてゆくその順序にしたがい)、つぎからつぎへと白い卵形の顔、黒い目、緑の目があらわれ出ても、私にはそれが今しがた魅惑されたのと同じものかどうか判然とせず、それをほかの少女と区別して識別できる娘のものとみなしていいのかどうかもわからなかった。やがて私もその少女たちを区別できるようになるが、私の視界にはいまだその区別が存在しないため、少女のグループから伝わってきたのは調和のとれたうねりにすぎず、流れるように動いてゆく美しい集団の絶えまない移動にすぎなかった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.329」岩波文庫 二〇一二年)
この流動する一団の中にアルベルチーヌが含まれていた。最初は誰なのかさっぱりわからない。ただ「ずいぶん目深にかぶったポロ帽の下の目から発する陰険な光を私とぶつからせたとき、この私を見たのだろうか?」という疑問符付きの<未知の女>として出現する。
「いっとき、自転車を押す褐色の髪にふっくらした頬の娘のそばを通りかかった私は娘のからかうような横目に出くわした。そのまなざしは、この小さな部族の生活を覆う非人間的世界の奥底から放たれたかに思え、その奥底は私に関する想念など到達もできなければ入りこむこともできない近寄りがたい未知の世界だった。仲間の少女たちのことばにすっかり気をとられているこの娘は、ずいぶん目深にかぶったポロ帽の下の目から発する陰険な光を私とぶつからせたとき、この私を見たのだろうか?もしそうなら、私はどう思われたのだろう?娘はどんな世界の内から私を見ているのだろう?それに答えることは私には無理だった。望遠鏡の力で隣の天体になにかこまごましたものが見えたからといって、その星に住んでいる人間がわれわれを見ていると断定したり、その人間がわれわれを見てどんなことを考えたかを言い当てたりするのが無理なのと同様である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.336」岩波文庫 二〇一二年)
単純素朴な形容詞を持ってくると「目と目があう」ということになるだろう。しかし「目と目があう」というフレーズがすでにステレオタイプ(紋切型)として定着していることには十分注意しなくてはならない。マリグリット・デュラス「アガタ」にこうある。
「欲しいわ、あなたの目、欲しい」(デュラス/コクトー「アガタ/声・P.18」光文社古典新訳文庫 二〇一〇年)
ただ単に「好きです」と言っているわけではまるでない。というのもこの作品の主題は「近親相姦」だけにあるのではなく「真っ赤な鮮血」を伴う「フェティシズム」(えぐり抜かれ採集される眼球)でもあるからだ。
アルベルチーヌの顔についてようやく区別することができるようになってきた頃、それでもなお、というより事態はむしろ遡行するかのように、アルベルチーヌは無数に分裂しつつ出現する。
「私はアルベルチーヌをどれだけ知っているのだろう?海を背景にした一、二の横顔だけである。その横顔は、もちろんヴォロネーゼの描いた女性たちの横顔ほどに美しくはない。もし私が純粋に審美上の動機に従っていたなら、アルベルチーヌよりもヴェロネーゼの女性のほうを好んでいただろう。激しい不安が治まると、見出せるのはあのもの言わぬ横顔だけで、ほかになにひとつ所有できなかったのだから、どうして美的動機以外のものに従えたであろうか?アルベルチーヌを見かけて以来、毎日そのことで数えきれないほどの考えをめぐらし、私があの娘(こ)と呼んでいるものと心のなかでくり返し対話をつづけ、その娘に質問させたり、答えさせたり、考えさせたり、行動させたりしてきたのだ。私の心に刻一刻と相ついで浮かんだ数えきれない一連の想像上のアルベルチーヌのなかで、浜辺で見かけた現実のアルベルチーヌは、その先頭に姿をあらわしているにすぎない。芝居の長期間の講演中、ある役の『初演女優』である花形は、最初の数日にしか出ないのと同じようなものである。この現実のアルベルチーヌはほんのシルエットにすぎず、そのうえに積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである。それほど恋愛においては、われわれのもたらす寄与がーーーたとえ量的観点だけから見てもーーー愛する相手がわれわれにもたらしてくれる寄与をはるかに凌駕する」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.465~466」岩波文庫 二〇一二年)
おそらく<未知の女>でありつづけるだろう。そう言ったのはバタイユである。
「おそらくアルベールだったにちがいないあのアルベルチーヌについて、プルーストは『偉大な<時>の女神』とまでいいきっている(『囚われの女2』)。プルーストのいいたかったのは、アルベルチーヌがどう力をつくしてみても近接不能の女であり、未知の女のままだったということであり、今にもこの女は自分から逃げていってしまうそうだということだったように思われる。しかもプルーストはアルベルチーヌかを是が非でも閉じこめ、所有し、『認識』しようと希った、いや、希ったと書いたのではあまりにもいい足りない、その欲望はきわめて強くまた過度のものだったので、ついには喪失の保証者となってしまったのだ。充足してしまえば欲望は死ぬはずだった。彼女が未知の女であることをやめれば、プルーストは認識しようと渇望することをやめたはず、愛することをやめたはずだ。愛は、アルベルチーヌが、認識から逃れ所有への意志から逃れようとして用いた嘘への疑いからこそ再生した」(バタイユ「内的体験・第四部・P.307~308」現代思潮社 一九九四年)
そしてまたブランショもこう述べている。
「しかしアルベルチーヌとは反対に、とはいえ明るみに出されていないプルーストの運命を考えるならおそらくは彼女と同じように、この若い女は、彼女が身をさし出すその疑わしい間近さによって、別の種、別の類の差異、あるいは絶対的に別のもののもつ差異にほかならない彼女自信の差異によって、決定的に隔てられている」(ブランショ「明かしえぬ共同体・2・P.81」ちくま学芸文庫 一九九七年)
ブランショの文章の中で「この若い女」とあるのはデュラス「死の病い」の主人公のこと。だが「主人公」とは一体誰なのか。ニーチェはいう。「誰か」と問うのは無意味だと。ニーチェにとって「自然」は一つも「目的」というものを持たないからである。
「おお、諸君、高貴なストア派の人々よ、諸君は『自然に従って』《生き》ようと欲するのであるか。それは何という言葉の欺瞞であろう!自然というものの本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、節度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒(ほうじょう)で、不毛で、かつ同時に不確かなものだ。諸君はその無関心そのものが力としてであることを考えてみるがよい。ーーー諸君はこの無関心に従って生きることがどうして《できようか》。生きること、それはまさしくこの自然とは別様に存在しようと欲することではないのか。生きるとは評価すること、選び取ること、不正であり、制限されてあり、差別的(関心的)であろうと欲することではないのか。そして、『自然に従って生きる』という諸君の命法が根本において『生に従って生きる』というのと同じほどの意味であるとしたら、ーーー諸君は一体どうしてそうで《なく》ありうるというのか。諸君みずからがそれであり、かつあらざるをえないものから、何のために一つの原理を作るのであるか。ーーー実を言えば、事情はまったく別なのだ。というのは、諸君は我を忘れて自分たちの掟(おきて)の基準から自然を読み取ると称しているが、実は或る逆のことを欲しているのだ。つまり、諸君は奇妙な役者で、自己欺瞞者なのだ!諸君の誇負は自然に対して、自然に対してすらも、諸君の道徳、諸君の理想を指定し、呑み込ませようと欲している。諸君は自然が『ストアに従って』自然であるように求め、そして一切の現存をただ諸君自身の姿に準じて現存させようと望んでいる」(ニーチェ「善悪の彼岸・九・P.21~22」岩波文庫 一九七〇年)
ただ「力への意志」のせめぎ合いがあるだけだと。
BGM1
BGM2
BGM3
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
そのような極めて限られた貴重な「時」を与えられている《乙女たち》。プルーストはさらにその特徴を列挙していく。なかでも特筆すべきは「通過してゆくときにははっきり聴きわけられてもやがて忘れ去るさまざまな楽節を明確に区別して認識できない音楽の場合のように、混沌とした」流動する<力>の「うねり」としてしか捉えなれない点。
「いまだ私は、こうした目鼻立ちのどのひとつにも、不可分な特徴としてだれか特定の少女に結びつけるには至っていない。私の目の前に(まるで異なる多様な容姿が隣りあい、ありとあらゆる色調が寄り集まって、それが目を瞠(みは)る調和を形づくってはいたが、さりとて通過してゆくときにははっきり聴きわけられてもやがて忘れ去るさまざまな楽節を明確に区別して認識できない音楽の場合のように、混沌としたこの集団が通りすぎてゆくその順序にしたがい)、つぎからつぎへと白い卵形の顔、黒い目、緑の目があらわれ出ても、私にはそれが今しがた魅惑されたのと同じものかどうか判然とせず、それをほかの少女と区別して識別できる娘のものとみなしていいのかどうかもわからなかった。やがて私もその少女たちを区別できるようになるが、私の視界にはいまだその区別が存在しないため、少女のグループから伝わってきたのは調和のとれたうねりにすぎず、流れるように動いてゆく美しい集団の絶えまない移動にすぎなかった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.329」岩波文庫 二〇一二年)
この流動する一団の中にアルベルチーヌが含まれていた。最初は誰なのかさっぱりわからない。ただ「ずいぶん目深にかぶったポロ帽の下の目から発する陰険な光を私とぶつからせたとき、この私を見たのだろうか?」という疑問符付きの<未知の女>として出現する。
「いっとき、自転車を押す褐色の髪にふっくらした頬の娘のそばを通りかかった私は娘のからかうような横目に出くわした。そのまなざしは、この小さな部族の生活を覆う非人間的世界の奥底から放たれたかに思え、その奥底は私に関する想念など到達もできなければ入りこむこともできない近寄りがたい未知の世界だった。仲間の少女たちのことばにすっかり気をとられているこの娘は、ずいぶん目深にかぶったポロ帽の下の目から発する陰険な光を私とぶつからせたとき、この私を見たのだろうか?もしそうなら、私はどう思われたのだろう?娘はどんな世界の内から私を見ているのだろう?それに答えることは私には無理だった。望遠鏡の力で隣の天体になにかこまごましたものが見えたからといって、その星に住んでいる人間がわれわれを見ていると断定したり、その人間がわれわれを見てどんなことを考えたかを言い当てたりするのが無理なのと同様である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.336」岩波文庫 二〇一二年)
単純素朴な形容詞を持ってくると「目と目があう」ということになるだろう。しかし「目と目があう」というフレーズがすでにステレオタイプ(紋切型)として定着していることには十分注意しなくてはならない。マリグリット・デュラス「アガタ」にこうある。
「欲しいわ、あなたの目、欲しい」(デュラス/コクトー「アガタ/声・P.18」光文社古典新訳文庫 二〇一〇年)
ただ単に「好きです」と言っているわけではまるでない。というのもこの作品の主題は「近親相姦」だけにあるのではなく「真っ赤な鮮血」を伴う「フェティシズム」(えぐり抜かれ採集される眼球)でもあるからだ。
アルベルチーヌの顔についてようやく区別することができるようになってきた頃、それでもなお、というより事態はむしろ遡行するかのように、アルベルチーヌは無数に分裂しつつ出現する。
「私はアルベルチーヌをどれだけ知っているのだろう?海を背景にした一、二の横顔だけである。その横顔は、もちろんヴォロネーゼの描いた女性たちの横顔ほどに美しくはない。もし私が純粋に審美上の動機に従っていたなら、アルベルチーヌよりもヴェロネーゼの女性のほうを好んでいただろう。激しい不安が治まると、見出せるのはあのもの言わぬ横顔だけで、ほかになにひとつ所有できなかったのだから、どうして美的動機以外のものに従えたであろうか?アルベルチーヌを見かけて以来、毎日そのことで数えきれないほどの考えをめぐらし、私があの娘(こ)と呼んでいるものと心のなかでくり返し対話をつづけ、その娘に質問させたり、答えさせたり、考えさせたり、行動させたりしてきたのだ。私の心に刻一刻と相ついで浮かんだ数えきれない一連の想像上のアルベルチーヌのなかで、浜辺で見かけた現実のアルベルチーヌは、その先頭に姿をあらわしているにすぎない。芝居の長期間の講演中、ある役の『初演女優』である花形は、最初の数日にしか出ないのと同じようなものである。この現実のアルベルチーヌはほんのシルエットにすぎず、そのうえに積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである。それほど恋愛においては、われわれのもたらす寄与がーーーたとえ量的観点だけから見てもーーー愛する相手がわれわれにもたらしてくれる寄与をはるかに凌駕する」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.465~466」岩波文庫 二〇一二年)
おそらく<未知の女>でありつづけるだろう。そう言ったのはバタイユである。
「おそらくアルベールだったにちがいないあのアルベルチーヌについて、プルーストは『偉大な<時>の女神』とまでいいきっている(『囚われの女2』)。プルーストのいいたかったのは、アルベルチーヌがどう力をつくしてみても近接不能の女であり、未知の女のままだったということであり、今にもこの女は自分から逃げていってしまうそうだということだったように思われる。しかもプルーストはアルベルチーヌかを是が非でも閉じこめ、所有し、『認識』しようと希った、いや、希ったと書いたのではあまりにもいい足りない、その欲望はきわめて強くまた過度のものだったので、ついには喪失の保証者となってしまったのだ。充足してしまえば欲望は死ぬはずだった。彼女が未知の女であることをやめれば、プルーストは認識しようと渇望することをやめたはず、愛することをやめたはずだ。愛は、アルベルチーヌが、認識から逃れ所有への意志から逃れようとして用いた嘘への疑いからこそ再生した」(バタイユ「内的体験・第四部・P.307~308」現代思潮社 一九九四年)
そしてまたブランショもこう述べている。
「しかしアルベルチーヌとは反対に、とはいえ明るみに出されていないプルーストの運命を考えるならおそらくは彼女と同じように、この若い女は、彼女が身をさし出すその疑わしい間近さによって、別の種、別の類の差異、あるいは絶対的に別のもののもつ差異にほかならない彼女自信の差異によって、決定的に隔てられている」(ブランショ「明かしえぬ共同体・2・P.81」ちくま学芸文庫 一九九七年)
ブランショの文章の中で「この若い女」とあるのはデュラス「死の病い」の主人公のこと。だが「主人公」とは一体誰なのか。ニーチェはいう。「誰か」と問うのは無意味だと。ニーチェにとって「自然」は一つも「目的」というものを持たないからである。
「おお、諸君、高貴なストア派の人々よ、諸君は『自然に従って』《生き》ようと欲するのであるか。それは何という言葉の欺瞞であろう!自然というものの本性を考えてみたまえ。節度もなく浪費し、節度もなく無頓着で、意図もなければ顧慮もなく、憐情もなければ正義もなく、豊饒(ほうじょう)で、不毛で、かつ同時に不確かなものだ。諸君はその無関心そのものが力としてであることを考えてみるがよい。ーーー諸君はこの無関心に従って生きることがどうして《できようか》。生きること、それはまさしくこの自然とは別様に存在しようと欲することではないのか。生きるとは評価すること、選び取ること、不正であり、制限されてあり、差別的(関心的)であろうと欲することではないのか。そして、『自然に従って生きる』という諸君の命法が根本において『生に従って生きる』というのと同じほどの意味であるとしたら、ーーー諸君は一体どうしてそうで《なく》ありうるというのか。諸君みずからがそれであり、かつあらざるをえないものから、何のために一つの原理を作るのであるか。ーーー実を言えば、事情はまったく別なのだ。というのは、諸君は我を忘れて自分たちの掟(おきて)の基準から自然を読み取ると称しているが、実は或る逆のことを欲しているのだ。つまり、諸君は奇妙な役者で、自己欺瞞者なのだ!諸君の誇負は自然に対して、自然に対してすらも、諸君の道徳、諸君の理想を指定し、呑み込ませようと欲している。諸君は自然が『ストアに従って』自然であるように求め、そして一切の現存をただ諸君自身の姿に準じて現存させようと望んでいる」(ニーチェ「善悪の彼岸・九・P.21~22」岩波文庫 一九七〇年)
ただ「力への意志」のせめぎ合いがあるだけだと。
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