白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて106

2022年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.28)

 

二〇二二年十一月二十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・花咲く乙女を世間から引き離したという喜び/平穏な恋心のための暴力的措置

2022年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

未知の生活を備えたアルベルチーヌではなく、<私>が知っていて、さらにもうこれ以上何一つ知ることから遮断し遮断された限りでのアルベルチーヌ。<幽閉・覗き見・監視>という条件下で始めて出現可能なアルベルチーヌ。そんなアルベルチーヌなら<私>は平穏な恋心を覚えるだけでなく恋心の平穏さを永遠化できる。極めて身勝手この上ない恋心に見えるけれども、だからといってそうでもしない限り<私>の嫉妬に伴う苦痛はますます延長され、傷は奥深く浸潤し、傷がさらなる傷を呼び寄せ呼び集め、いずれ耐えられない激痛と化して身も世もなくのたうちまわることになるだろう。<私>は欲望について次のように考える。

 

「相手の生活や性格にたいする興味をかき立てるのはひとえに欲望であるが、たとえ異なる相手をつぎからつぎへと愛しては捨ててゆく欲望の場合でも、われわれはなによりも本性に忠実なので、あるとき『ぼくのかわいい娘(こ)』と呼んでアルベルチーヌに接吻しようとしてふと鏡に映る自分のすがたを見たとき、自分の顔の情熱に駆られたせつない表情に気づいた私は、もはや想い出すこともないジルベルトのそばでも以前きっと同じ表情をしたはずで、万一アルベルチーヌを忘れることがあればべつの女性のそばでもいつか同じ表情をするかもしれないからには、私は個別の人間への配慮を超えて(本能は現在の女性をただひとりの女性と考えたがるものだが)、まるで神に供物を捧げるように、女性の若さと美しさなるものに痛ましくも熱烈な崇拝のまことを捧げているのだと考えた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.165~166」岩波文庫 二〇一六年)

 

欲望について「万一アルベルチーヌを忘れることがあればべつの女性のそばでもいつか同じ表情をするかもしれない」とあるように、欲望というものは本来的にコントロール不可能なものだ。たった一人の人間の中でさえ<力としての無数の多様性>がひしめき合い、闘争し合い、合意し合い、家畜化し、家畜化され合い、といった諸状況を目まぐるしく反復している。

 

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫 一九七三年)

 

その中には言語としての<私>がいる。ところが言語としての<私>はいつも疲れている。<私>は<私>自身に自信が持てないからではなく、<私>は<私>自身を監視・管理することに疲れるほかないからである。ところが欲望はそんな<私>のことなどまるで気にせず生き生きと世界へ流れ出し世界を変容していく。

 

「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)

 

そんな<私>にとって必要なのは「鎮静の力」だ。鎮静剤なしに<私>はアルベルチーヌとの平穏な同棲生活を続けていくことはとてもできない。

 

「とはいえ毎晩こうしてアルベルチーヌを自分のそばにひきとめておこうとする私の欲求のなかには、『奉納物』を捧げて若さを讃えたい気持やバルベックの想い出のほかに、これまでの私の生涯では無縁であったもの、私の生涯において完全に新しいとは言えずとも少なくとも私の恋愛経験には無縁であったものが混じっていた。それははるか昔のコンブレーにおける幾多の夜、私のベッドへかがみこんだ母がその接吻にこめて私に安らぎをもたらしてくれたとき以来、一度も味わったことのない鎮静の力だった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.166」岩波文庫 二〇一六年)

 

差し当たり<私>の鎮静剤となりうるもの。それは世間とアルベルチーヌとの「引き離し」、絶縁であり、実際そうした。そしてその暴力的措置が成功しているかいないかの判断基準は「慶び」が伴っているかいかいかに掛かっている。「アルベルチーヌをわが家に定住させるという私の喜びは、積極的な喜びではなく、むしろ万人がそれなりに賞味できる花咲く乙女を世間から引き離したという喜びであり、その娘が私にさほど大きな歓びを与えてくれなくても、他人がその大きな歓びを味わうのを妨げていたからである」。

 

「というのは、アルベルチーヌをわが家に定住させるという私の喜びは、積極的な喜びではなく、むしろ万人がそれなりに賞味できる花咲く乙女を世間から引き離したという喜びであり、その娘が私にさほど大きな歓びを与えてくれなくても、他人がその大きな歓びを味わうのを妨げていたからである。野心や名誉は、私の関心の外にあった。まして人を憎むことなど、できるわけがなかった。にもかかわらず私の場合、肉体的に愛することは、やはり私にとって多くの競争相手にたいする勝利を味わうことであった。何度くり返しても言い足りないが、それはなににもまして心を鎮めてくれたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.166~167」岩波文庫 二〇一六年)

 

<力としてのアルベルチーヌ>=<欲望としてのアルベルチーヌ>を定住民へと打ち固めてしまうこと。<私>のための鎮静剤はそんなふうに大変暴力的な所作なのだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて105

2022年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.27)

 

二〇二二年十一月二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<眠ること>としてのアルベルチーヌ/<私>は不意打ちから新しく思考することを学んだ

2022年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

<眠ること>。「失われた時を求めて」の中で何度か論じられるテーマの一つだが、アルベルチーヌの眠りについて本格的に語られるのはこの前後の箇所が始めてであって、その眠りを通して<私>は「自分のそばになお多くのべつのアルベルチーヌが寝(やす)んでいるのを目の当たりにする想いがした」。覚醒時のアルベルチーヌについて<私>は「たったひとりのなかに何人ものアルベルチーヌを見てきた」し二人で話していると今なお<私>はアルベルチーヌの言葉の一つ一つに戸惑うばかりでまともに考え受け止めることができない。<幽閉・覗き見・監視>という形で所有しているにもかかわらず、覚醒時のアルベルチーヌはどこまで追いかけてみてもここで<捉えた>という気には到底なれない<未知の地帯>として立ち現れ、<未知の地帯>は瞬時に新しい誘惑として<私>をますます<監視・管理への意志>へと変容させる。もっとも、プルーストはこの箇所で<私>につべこべ言わせず、けっして否定できない一つの認識を明確化させている。「アルベルチーヌは、顔の位置を変えるたびに新たな女を創りだし、それははなはだ私の想いも寄らぬ女となった。私はただひとりの娘ではなく、無数の娘を所有している気がした」と。

 

「たったひとりのなかに何人ものアルベルチーヌを見てきた私は、自分のそばになお多くのべつのアルベルチーヌが寝(やす)んでいるのを目の当たりにする想いがした。一度も見たことのない形に弧を描いた両の眉は、アルキュオネの巣のごとく、丸い両の瞼をとり巻いている。この顔にはもろもろの血統や悪癖が宿っているのだ。アルベルチーヌは、顔の位置を変えるたびに新たな女を創りだし、それははなはだ私の想いも寄らぬ女となった。私はただひとりの娘ではなく、無数の娘を所有している気がした」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.156」岩波文庫 二〇一六年)

 

そこで<私>に訪れている安堵の時間帯。しかしこの安堵はどこからやって来たのだろうか。<眠ること>を演じているアルベルチーヌの身体からである。<眠る>という身振りは実はそれ自体がまたしても<私>を「不純な快楽」へと突き進ませずにはおかない一つの記号でもある。「私はアルベルチーヌの眠りという舟に乗りこんだ」。<私>は何かを確かめるかのようにアルベルチーヌの身体のありとあらゆる箇所へ手を置き、手を移動させ、再び手を置いていく。プルーストの観点から見れば、諸商品の無限の系列としか言いようのないアルベルチーヌの中に、もう一つ、<眠ること>としてのアルベルチーヌが付け加えられている。そして<眠ること>としてのアルベルチーヌを味わう<私>はこう思う。「相手がこちらをひどく苦しめることのできる存在であるからこそ、放免のときにはこのような大自然と同様の心安らぐ平穏を与えてくれるのかもしれない」。

 

「私は、まるで波の砕ける音に何時間も耳を傾けるように、心静まる無私無欲の愛情をいだいてアルベルチーヌの眠りを味わっていた。相手がこちらをひどく苦しめることのできる存在であるからこそ、放免のときにはこのような大自然と同様の心安らぐ平穏を与えてくれるのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.158」岩波文庫 二〇一六年)

 

この「平穏」は<私>の所有欲が満たされている時間帯に限り訪れる所有欲の充足感にほかならない、ということをもはや<私>は隠す必要一つ感じていない。婚約中の同棲に名を借りた<幽閉・覗き見・監視>という暴力的形式を用いて始めて手に入れた充足に満足しつつ<私>は「この顔にはもろもろの血統や悪癖が宿っているのだ」と思う。<私>だけでなく当時の世間では同性愛のみならずアルベルチーヌのようなトランス(横断的)性愛者は常に「有罪」とされ迫害されていたためそう書かれているわけだが、そう書いているのは作者プルーストであって、プルースト自身は上流社交界の内情に大変よく通じていたので「悪癖」とか「有罪」とかいう俗語をあえて持ち込んで上流社交界の内幕を<暴露>しているに過ぎない。シャルリュスの同性愛は周囲のほとんどの人々が重々承知しているし、モレルのトランス(横断的)性愛はゲルマント大公だけでなくメーヌヴィルの豪華娼館の誰もが知っている。さらに<私>はシャルリュスの場合にしてもモレルの場合にしても<覗き見>という形で詳しく読者に報告している。プルーストは作品を通していつも<暴露>というテーマを忘れない。

 

ところで第一のアルベルチーヌと第二のアルベルチーヌとの間を引き裂いている余りにも大きな違い(差異)について。プルーストはこう述べる。「こうした根本的な変化がいきなり生じたのは、わが恋人がヴェントゥイユ嬢の女友だちに育てられたにも等しいと聞かされたときである」。

 

「同じアルベルチーヌを眺めていながら現在の私の見方とバルベック滞在当初の私の見方とにこれほどの相違が生じた重大な要因は、私が時間のなかを移動したことにあるのではなく、本人が背筋をのばして海沿いを進んでいったときの太陽とは違うランプの光のもとで今や私がそばに座る若い娘を眺めているという事実にあるのでもなく、アルベルチーヌの精神が実際これほど豊かになり、自力で進歩したことにあるのでもなかった。もっと多くの歳月がふたつのイメージを隔てたとしても、これほど完璧な変化は起こらなかったであろう。こうした根本的な変化がいきなり生じたのは、わが恋人がヴェントゥイユ嬢の女友だちに育てられたにも等しいと聞かされたときである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.162~163」岩波文庫 二〇一六年)

 

アルベルチーヌの<最初のイメージ>と<現在のイメージ>とを画する要因が列挙されており、その一つづつについてはもう見てきた。しかしそれら以上に特に重大な要因となったのは、アルベルチーヌが間違いなくトランス(横断的)性愛者であるという動かしようのない事実だった。<私>をそれまでの<私>とは桁違いの緻密な思考へ駆り立てたものは、アルベルチーヌが<私>の知りようのない<未知の地帯>を生きているということを知らされた瞬間に生じた<ショック>である。

 

「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第三章・P.354」河出文庫 二〇〇七年)

 

アルベルチーヌはトランス(横断的)性愛者である。その事実は<私>にとって避けようのない「ショック」として働いた。そこで始めて<私>は新しく思考するほかなくなった。それまでの<私>は世間の習慣に染まりきり因習に浸りきり、ほとんど何一つ思考しようとしなかった怠惰それ自身だったのであり、否応なく新次元の思考を切り開いていかなくてはならなくなったという意味で言えば、アルベルチーヌのトランス(横断的)性愛は<私>にとって願ってもない良薬として<私>を見事に不意打ちしたと言える。そうでなければこれまで触れられてきた様々な要因について<私>が振り返って緻密な検証を施すことなどまるでなかったに違いない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて104

2022年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

今朝浜辺に到着したのは日の出予定時刻の二十分前です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.26)

 

二〇二二年十一月二十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。