何故、市島家は水原に来た! 瓢湖造成に関わった?
慶長3年(1598年)、溝口秀勝(ひでかつ)が新発田藩主として新発田に来た頃、藩内には信濃川・阿賀野川・中ノ口川・加治川などの大きな川があり、それが沼や潟(福島潟・紫雲寺潟・鳥屋野潟など)をつくり、低湿地帯が多く雨が降ればたちまち氾濫して一面泥の海になる状態。領地の大部分が、茫獏たる芦萩の生え茂った沼沢の湿地との記録もある。また長い戦乱(新発田重家と上杉景勝との戦い)の後で田畑は荒れ、6万石といってもそれほど収量はなかった。歴代の藩主は阿賀野川・加治川の改修、島見前潟の干拓など治水と新田の開発に努めた。
この耕地改善の地に、水原が含まれる。溝口秀勝の部下には速水左近の如き治水干拓に有能な家臣があり、逐次良圃美田の増加を見るに至った。水原の地も溝口秀勝の支配地になり、家臣・永井(長井?)源助が水原城代になった。前城主・水原常陸介親憲(52歳)は上杉景勝に従い、溝口秀勝が新発田藩主になる年の1598年1月に水原を去り、会津に渡って水原城に城主はいなかった。(下)水原代官所の室内に展示している水原常陸介親憲の姿図。水原城主・水原満家が月岡温泉と新発田市五十公野の中間にある法正橋で上杉軍として戦い、戦死。城に跡継ぎがいなかったので、上杉景勝(上杉謙信の相続人)が部下の大関親憲(40歳)を城主として命令。約12年間、水原町で城主となった。「参考」上杉景勝は会津城(鶴ヶ城)120万石になった。水原常陸介親憲は福島市・福島城の城主、5,500石になった。
親憲は川中島の戦いで逸話が残っています。
新発田に溝口秀勝が来てから27年後の1625年、水原地区が大干ばつに遭う。田に入れる用水が無い状態になり、水稲の米が収穫できない。そこで翌年、新発田藩2代目・溝口宣直が外城八幡宮の道路向かいの荒地(湿地)に縄引きして、内側の土や泥を掘り上げて水田の用水溜池を築いた(下図を参照)。約12年の歳月を要し12町9反余(36,270坪)の外城大堤(現在の瓢湖)を1639年に完成させた。 その45年後の1684年、水原城が廃城に。1352年から332年間で幕。
瓢湖を造成したのは、徳川時代の新発田藩 ! 約12年間、瓢湖の造成工事。この時、戦闘要員でなく事務方・用具方など城の内部作業を担当していたと思われる市島の先祖は、何度か新発田から工事現場の瓢湖に来ていると考えられる。当然、工事担当者や地元の農家との交渉もあっただろう。顔見知りや親しい関係を築いた者もいたと考えられる。瓢湖完成から48年後に下記の水原大火が発生(水原城廃城から4年後)。火災から数年後に市島は新発田市五十公野から転居している。当時の水原地区は新発田地区より農地が優良だった。そのため、幕府は新発田藩から水原の土地を寄付させ幕府領にしている。土地感や知り合いがいれば転居先の候補になったと考えられる。
元禄元年(1688年)3月、水原元禄の大火。水原の街並み、残らず焼失。残ったのは長楽寺、庄屋・嘉右衛門斗りの由
元禄3年(1690年)この頃、水原東組・西組が上地「新発田藩の土地を幕府に寄付させる」となり幕府直轄となる。但し中組は依然として新発田領。境は入り組んでいた。
元禄8年(1695年)質流れによる田畑の所有権を認めた。農地の売買は認めていないが、質流れで田を入手できた。
(下)1695年9月の水原家並図。下の図には載っていないが、この図面の右側に新発田市五十公野から転居してきた市島の家が記載されている(職業は田作り。31歳) 後日、市島家が載っている部分もブログ投稿します。 青い矢印先が、荒地・湿地から造成した瓢湖。溜池なので、干ばつ時の用水確保に役立った。茶色い矢印先は道路。