昭和10年6月、阿賀野市上関口の田に歩兵第16連隊の地対空連絡演習中に各務ヶ原飛行隊所属機が墜落。搭乗者の桐山少佐、川口曹長が殉職。翌昭和11年6月 その地に殉難碑を建設。1枚目の白黒写真は墜落時のもの。碑の建設には、神山村長や新発田市長も協力しています。墜落時は日中で、近くの尋常小学校の生徒が目撃しています。私の年代では、この碑が何なのか知らない人が多いので、後世に伝えるために投稿します。戦争が生んだ悲劇の一つです。冥福を祈ります。 管理人 (碑の高さは、約3.6m)
昭和10年6月、阿賀野市上関口の田に歩兵第16連隊の地対空連絡演習中に各務ヶ原飛行隊所属機が墜落。搭乗者の桐山少佐、川口曹長が殉職。翌昭和11年6月 その地に殉難碑を建設。1枚目の白黒写真は墜落時のもの。碑の建設には、神山村長や新発田市長も協力しています。墜落時は日中で、近くの尋常小学校の生徒が目撃しています。私の年代では、この碑が何なのか知らない人が多いので、後世に伝えるために投稿します。戦争が生んだ悲劇の一つです。冥福を祈ります。 管理人 (碑の高さは、約3.6m)
6月16日、阿賀野市安田地区庵地で、第1回「やすだ瓦ロード フェスティバル」が開催されました。「阿賀野市 瓦ロード」などで検索すると多くのHPやブログで瓦ロードの写真が紹介されているので、ここでは3枚の写真のみ紹介します。
私が紹介したいのは、1枚目の大きな写真。ブログなどに載っていないようなので(?)載せました。福島県の会津 鶴ヶ城の瓦が、黒色瓦から赤色瓦に葺き替えされましたが、この瓦、阿賀野市庵地で生産されている瓦です。庵地地内を車で走ると目に止まります。鶴ヶ城に行っても高い屋根の瓦はよく見えませんが、ここならよく見えます。関心のある方は、ご覧ください。どうして阿賀野市産になったのか知りませんが、北越戊申戦争や直江兼続の時代から阿賀野市の水原地区や安田地区は会津と縁のある地域です。今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」では、鶴ヶ城が大変なことになっていますが、この赤瓦を見ていると いろいろと考えてしまいます。
写真の鬼瓦は、(有)村秀鬼瓦工房さんの作品です。 管理人
(写真は、現在の分田集落) 古記によると分田七郎俊長は、悪さをして住民を苦しめていた新発田市五十公野に城を構えた阿部貞任の残党、黒鳥兵衛を退治して納代城を賜った。按ずるに分田は古昔、納代と称したるが如し。と、ある。黒鳥退治は、伝説として広く伝わり潤色されて読み物として普及した。実際は、山賊のような人間たちだと思われる。悪さにしても「越船を捕獲し米塩を奪い、渡し船一艘を阿賀野川大瀬戸に置きて行人を征す。諸民之に苦しむ」とある。やはり、分田集落から海や阿賀野川に行け、交通の要のよう土地位置だったと思われます。
明暦元年(1655)7月、日枝神社建替えの時、長治元年(1104)7月27日分田七郎再建と記載せる棟札を得たり、とあります。分田七郎俊長が実際にいた証になります。 「分田村郷土史に記載」
分田集落内にある玉泉寺境内にある崩れ落ちて苔むす塔は、往時の豪族分田七郎俊長の墓と伝えられています。これを大正時代の中頃、分田村有志が発掘調査の計画を立てたが、ついに実現にいたらなかった。と、「水原の歴史風土」に記載されています。
分田七郎俊長の資料が少ないので、一応 私の調査は、ここで終了します。最後まで読んでいただき感謝いたします。歴史を調べることは、推理小説を読むように探偵になって捜査するような気持になります。さて、ひと段落したので今晩は食品スーパー加藤商店さんが発売されている「分田七郎俊長」という日本酒(写真は、酒瓶のラベル)を飲んで、打ち上げとします。 この日本酒、おいしいですよ。 管理人
この地図は、享和2年(1802)の越後国全図の一部(分田地区など)。 この年、2月に蝦夷奉行を置き5月に箱館(函館)奉行と改称。「東海道中膝栗毛」初版刊行。幕府、伊能忠敬に陸奥・出羽・越後諸国の測量を命じる(伊能忠敬が全国測量を開始したのは1800年)。私の住む笹神地区の集落の位置が現実とこの図面とで違うのが数ケ所あります。あまり正確な地図でないと考えます。阿賀野川と周辺の集落の位置が、前に投稿した位置と違いがあります。阿賀野川の大洪水は、天文5年(1536)、寛永8年(1631)なので、どちらかの地図が間違っていると思います。
私の考えでは、この図面を参考に伊能忠敬が測量をしたと思います(越後の測量を開始したのが、1802年。この図面が1802年に完成していたこと。伊能忠敬が作成した地図はこの写真のような図面でないので)。きっと、伊能忠敬は、あそこも ここも違っている、等と話しながら測量していたと思います。
ただ、この図面を見ると分田七郎俊長が住んでいた分田(地図では文田)から海に直接行けたようなので、分田七郎俊長の時代も直接海に行けたのでしょう。人が集まる位置。そのため山賊のような人間たちも集まる。それを分田七郎俊長が退治したと思います。証明する資料はありませんが、大きな間違いはないと思います。以下、次回に続きます。 管理人
6月22日にざくろの花を投稿しました。その後も花が咲いたり、落花したりの状態です。朝、よく見るとご覧のような状態です。
花の根本が丸く肉がついてきて、2枚目のはかなり丸くなっています。このまま大きくなり、あの酸っぱいザクロになります。
落果せず、私が忘れなければ赤い実になった時 もう一度投稿します・。 管理人
昭和15年(1940)、分田七郎俊長の館跡周辺を土地改良した時、居城跡を裏付ける鎌倉時代のものと推定される手鏡・古銭・擂鉢や写真の古鏡(五十嵐敬吉氏所有)が出土した。古鏡は、菊花紋の配列が特徴的です。
「水原の歴史風土」の本によると、分田七郎俊長は応徳元年(1084)より長治元年(1104)まで約20年、群雄割拠乱国の時代によく人心を修め、郷土を安きに置いた名豪士であったと思われるが、以後は口伝にも他の文献にも拠ることができない。と、記されています。又、他のページには「分田氏は、佐々木源氏の一族で資料では南北朝期(鎌倉時代の後で、1336年に朝廷が分裂してから1392年に皇室が合一するまでの時代。室町時代の初期にあたる)に南朝(越後では足利源氏、北朝が優勢)に属し、やがて滅亡したと伝えられる。と、記されています。 以下、次回に続きます。 管理人
阿賀野市から五泉市へ向かう阿賀野川にかかる安田橋。その橋の欄干に立つ鬼。この作品は保田(庵地)の鬼瓦職人の村山さんの作です。反対側にはいねむり(瞑想?)している鬼がいます。五泉市に行かれる時は、ぜひご覧ください。安田橋は、平成7年10月竣工。6月30日(日)の新潟日報朝刊に製作者の村山さんが写真入りの記事で紹介されています。 管理人
阿賀野市の名物 「ごずっちょ最中」
これは、お客様からの頂き物。ありがたく食べました。以前、私が買ったのは「アベ製菓」さんの最中。こちらもおいしくいただきました。旧水原町の商店街にある数店の菓子店で買えます。 管理人