北方文化博物館
新潟市江南区沢海 北方文化博物館屋根裏ギャラリーで
2019年7月13日~7月19日まで、第6回 高彩会水彩画展が開催されています。出品者15名、新潟市14名・阿賀野市1名。
入場無料です。時間が有ったら、ぜひご覧ください。 私は13日、行ってきました。
北方文化博物館
新潟市江南区沢海 北方文化博物館屋根裏ギャラリーで
2019年7月13日~7月19日まで、第6回 高彩会水彩画展が開催されています。出品者15名、新潟市14名・阿賀野市1名。
入場無料です。時間が有ったら、ぜひご覧ください。 私は13日、行ってきました。
2018年6月、片桐正英さんが調査し冊子で発表した「水原常陸介親憲の生涯」。片桐さんから投稿の了解をもらったので投稿します。 去年発表した第一部はA4版で約50ページ。3ページぐらいを数回に分けて投稿します、。 第二部(補足版)はまだ、未完成。完成したら、こちらも投稿します。 インターネットでいくつかHPを検索できますが、総合的にこの調査書が一番詳しく、正確だと思います。第一部は15~17回くらいで投稿予定です。 管理人
次回に続きます。
1971年(昭和46年)3月、「白鳥を守る会」創立。
来賓には法大・日大講師ローゼ・レッサー夫人(ドイツ)、上野動物園の鎌奥哲夫氏も出席。
上、創立総会の会場。 この記事は「郷土史 外城物語 平成23年発行」から転載。
2019年6月下旬、午後5時45分 瓢湖。 白鳥が12羽いました。
午後6時から、瓢湖の脇にある「割烹 湖四季」で宴会。 綺麗なお姉さん達の酌で、ビールをグイッ。
1970年(昭和45年)、瓢湖に人口島3箇所造築された。
文化庁、県の補助を受け 文化財保護事業として工事。人口島の大きさは1箇所36㎡。工事費60万円、文化庁の補助金は30万円。
鉱員などの流入で人口も増加。大正時代からずっと2千人台で推移してきたが、昭和15年(1940年)の国勢調査で初の3千人台になった。
活況は戦後になっても続いた。昭和26年には、会社に診療所・保育所・映画館などの厚生施設があり、野球部やカメラ部などの活動も活発だった。 「鉱山まつり」も開催された。祭りの時は赤谷小学校の全児童をトラックで招待した。日曹は、従業員の子弟の為に自己資金で飯豊小学校を建てたが、その前は日曹、日鉄から80人くらいの小学生がトラックで通学していた。
人口もピークの昭和25年(1950年)には4,262人になった。鉱山のほかに鉄道官舎、東北電力の社宅もあった。ダム建設などの工事関係者は住民票を移さない人もいたから、実数はもっと多かった・・そうです。
しかし、昭和26年の赤谷炭山の閉山で人口は再び3千人台に。昭和43年には飯豊鉱山閉山。昭和50年(1975年)には、とうとう日鉄も決め、現在(昭和59年。1984年)の鉱山新設になった。
職場を失った人々は山を去った。地元の若者も町場に移住し始めた。 昭和58年(1083年)末には人口が1,212人。次回に続きます。