エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #あの声

2020-02-02 08:01:00 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #肝心なこと

 #哲学あんの? 現世考: ルンド大学の女子大生の朗らかさ 関口知宏さんのヨーロッパ鉄道の旅から      関口知宏さんの「ヨーロッパ鉄道の旅」スウェーデン篇、日め......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。

 

生きているのに
死んでいるあなたへ

 

今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。

 

 

あの声は

 

人の気持ちや思いを

 

はるかに超えています。

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#鼻が利く子 = #大事にされた子

2020-02-02 07:26:39 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#卒業できるニューロフィードバック と #卒業できない服薬生活

 #ストレスホルモン #自宅に出る熊 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : #お母さんが神様を信頼することの、#値打ち Insight and responsi......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.115の第2パラグラフから。

 今朝は,p.116の,第2パラグラフの8行目から。

 

心響かせることに身を入れる

 

… 

 安心して赤ちゃんがお母さんにくっ付いていられることは,同時に,できたという気持ちを育てますが,「安心して自分のことは自分で出来て清々しい心の場」を創造します。この「安心して自分のことは自分で出来て清々しい心の場」は,生涯を通して,挫けずに生きる秘訣です。安心してくっ付いていられる子ども等は,自分が心地よいと感じるようになります。というのも,安心してお母さんにくっ付いていられる赤ちゃんは,自分(や人)が気分が悪くなるものを見付けて,善くする心の習慣を身に着けているからです。善くする心の習慣って,自分の方から関われば,自分の気持ちや人の反応が変えられると分かっています。安心できるアタッチメントがうまくできた子ども等は,自分で解決できる状況と助けが必要な状況の分別がつくようになります。安心してくっ付いていられる子ども等は,困難に直面しても,自分から困難に向き合っていくことができるようになります。反対に,粗末に育てられた子ども等や,相手にされずに育った子ども等が身に着けることと言ったら,怖がっても,お願いしても,泣いても,親が相手をしてくれない,ということです。何をしたって,何を言ったって,親は打つことを止めてくれませんし,眼も助けもくれません。粗末に育てられたり,親から相手にされずに育った子ども等は,後年試練に出会うと,諦め人生を生きること決まってしまいます

 

 生きている実感を感じるようになる

 

 ボールビーの同時代の人,小児科で精神分析家のドナルド・ウィニコットこそ,心響かせる関わりを研究する今の研究の父です。ウィニコットの精緻な母子観察は,お母さんが自分の赤ちゃんを抱っこするやり方を観察することから始まりました。ウィニコットが提示したのは,赤ちゃんの身体とお母さんの身体に触れ合うことが,赤ちゃんが生かされている実感を実感する元ですよ,それに伴い,本当の自分と生涯一心同体に成るということの元ですよ,ということです。お母さんが我が子を抱く抱き方が,「その子の身体がその子の魂が生きた場と感じる元」ですよ、ということです。私どもの身体が腑に落ち実感していることが,「生きている実感」の大元です。

 

 ウィニコットが考えたのは,大部分のお母さんは赤ちゃんに上手に心響かれていた,ということでした。「いいお母さん」とウィニコットが呼ぶ母親になるのは,特別な才能などいりません。しかしながら,ことが本当に悪くなるのは,お母さんが赤ちゃんの実感に心響かせることができない場合です。もし,お母さんが赤ちゃんの体感やニーズにピッタリと息を合わせることができない場合,赤ちゃんはお母さんが「この子はこうなってほしい」という思いを忖度し合わせるようになってしまいます。赤ちゃんが実感している体感を軽く見たり,母親自身がしてほしいことに赤ちゃんを合わせようとしたりすると,赤ちゃんは,自分の生き方は「なんかおかしい」と感じるようになってしまいます。お母さんが息を合わせてくれない子ども等は,傷つきやすく,自分の身体から直接貰える実感,すなわち,心からの歓び,生きる目的,生きる指針の3つの大元を実感できません。

 ボールビーやウィニコット等のアイデアが紹介されて数年後,世界中でアタッチメント理論のおかげで,大部分の子ども等は,安心してお母さんにくっ付いていられるアタッチメントがあると分かりました。安心してお母さんにくっ付いていられるアタッチメントがある子ども等が大人になりますと,頼りになり心響く関わりをしてもらえたことから、恐れや心配はご無用になります。押しつぶされるような出来事,すなわち,トラウマに晒されることがなければ,生涯を通して安心できる状態がいつもの生き方になります。トラウマがありますと,自分で自分の気持ちを治めることができなくなります安心して赤ちゃんがお母さんにくっつくことは,その子らの対人関係の雛形になります。安心して赤ちゃんの頃にお母さんにくっつた人は、人の気持ちに気付きますし,現実とお遊びの区別が幼い時分から分かります安心して赤ちゃんの頃にお母さんにくっつた人は、ウソと危ない人に鼻が利きます

 

 人は大事にされると鼻が利くようになります

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#死  = #ウソばっかりで約束がない

2020-02-02 07:09:12 | エリクソンの発達臨床心理
 
#生きている実感 は #日々の関わり合い から #今

 #3層からなる現実 #エゴ と #私 #人生の主人公 聖書の言葉: バカと救いは紙一重    世の中が変わるのは、たった一人の気付きから!   レイチェル・カーソ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」

をご参照ください。

 Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと危機』のp168。

 p.170の母親の告白の続きで,18行目から。備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。

 

 

 忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません

 …

 

時間の見通しに志がない

 

 思春期が遅く来たり,長引いたりする極端なケースに中に,時間の実験の中で混乱しきった極端に事例が出ます。そういった事例は,やや軽傷の場合でも,子どもの頃から後は,辛い毎日だ,という人もいます。その辛い毎日とは,「●●しなきゃ」と強く思うのに,人生には限りがあると思わなくなることです。その若者は,とても若いのに,赤ちゃんみたいで,しかも,若返りどころか,老人です。私は一心同体に成り損ねて,恵み深いキリストが魂の中で育たず,心がバラバラですよと公言する事が,私どもの患者さんに共通しています。それは,私は一心同体に成り損ねて,恵み深いキリストが魂の中で育たず,心がバラバラですよと公言する事が若者にはありがちなのは,このように、私は一心同体に成り損ねて,恵み深いキリストが魂の中で育たず,心がバラバラですよと公言する事が,浮世離れした話と思われがちだからです。ところが,コチコチの敵意の塊とは,何をやっても無駄ですよ,と信じて疑わない不信の塊ですし,変化をひどく恐れている不安の塊です。この世は変わらないと信じ込んでいるのに変化をひどく恐れている心の矛盾が表に出ると,何をしても動きが遅い,ということになります。この、何をやっても動きが遅いと,その患者さんは,まるで糖蜜の中にいるみたいに,動けなくなります敵意の塊の人って,床についても,なかなか眠れませんし,同じように,起きても,目もパッチリに目覚めることもできません。敵意の塊の人って,セラピーの約束を守って時間通りに来ることもできなければ,セラピーを時間通りに退室することもできません。敵意の塊の人って,「分かりません」、「もうダメだ」、「もうやめた」が,軽いうつ病を示す常套句になりますし,エドワード・バイブリングがエゴには一種の絶望する願いがあると言った,その表現である「死にたい」って零すこともよくありますね。

 人生は関わりの中で終末に向かって創造されているし,そこに発達の目的がありますし,試練が仕込まれた計画の後に「息を最後に吐く日」があることを,腑に落ちて受け止める,ということを少しも快く思いませんが,人生には終わりと目的がある、ってことが腑に落ちることこそが,試練がある新たな創造を始めることには不可欠で唯一の条件なのにね。患者さんの中には,セラピーが,人生は生きるに値すると証明できないのであれば,人生はいつまでも続くと思い込んでだままにしないでほしい,と願う人さえいます。このような対立がなければ,生涯を賭けて約束する一心同体になり遅れてもいい時期(モラトリアム)は,本物にならないでしょう。生涯を賭けて約束する一心同体に成るまでの間,「死にたい」という願いが,唯一の現実の自殺願望になりますが,自殺を願うレアケースでは,自殺そのものが,唯一の一心同体の選択肢になります。私が思い出すのは,1人の可愛い娘さんです。その娘さんは工場労働者の姉妹の一番上の娘さんでした。お母さんが繰り返し零したのは,「娘達は遊び女というよりも死んでいるように見えます。同時に,男と遊びに行く度に,今日も娘達は『遊び女になる』んだなと感じます」というのでした。その娘さん達は,結局,お母さんから逃れることを狙って,それぞれが自らの選択で,いわくあり気な女子寮に入らざるを得なくなりました。それは,2つの選択肢を確保しながら,お互いに男達から守られるためでした。娘たちは結局,互いに約束し合う羽目になりました。

 

 今日のところも深いところです。ちょっと訳しきれない思いを残した翻訳です。朝の翻訳より,多少は良くなりました。

 補足的に申し上げれば,本当の自分が生きるためには,約束が不可欠だ,ということです。

 死は,ウソばかりで,約束がない状況の必然です。

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