二コラ・プッサン「キリストと姦淫の女」1653 ルーブル美術館
昨日は「ブドウ園の労働者」の譬えでした。
今日はもうひとつ、「姦淫の女」の譬え話です。
これは、「ヨハネによる福音書」第8章1節~11節にあります。他の福音書には並行記事のない、ヨハネの独自資料に基づく寓話です。
イエスはオリーブ山に登って、ついてきた民衆に教えていました。すると、真面目がいのちの律法学者とファリサイ派の人々が、姦淫の現場から連れて来た女を、みんなの真ん中に立たせて、イエスに言います。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法が命じています」と。しかし、これは真面目な律法学者たちがコッソリ仕掛けたワナ、謀略、はかりごとでした。ユダヤでは、2人が証人として立たないと、姦通罪は成立しなかったそうですから、律法学者たちが、計画的にこの手の女を見つけて来たと言えそうです。それは、イエスをワナにかけるため。
なぜこれが謀略なのか?
それは、イエスが「この女を許せ」、と言えば、律法に反したことになりますから、訴える口実を得ることができます。かたや、イエスが、「この女を打ち殺せ」、と言えば、日ごろから救いを宣べ伝えていることと矛盾しますので、イエスのウソを喧伝するチャンスを、真面目な律法学者たちが手に入れることができます。すなわち、どう展開しても、真面目な律法学者たちがはイエスを窮地に追い込めることができる、と陰でニヤニヤしていたはずです。
イエスは、最初は真面目な律法学者たちを相手にしないで、しゃがんで、地面に何かを書いていた、と言います。謀略とすぐに分かったのでしょう。イエスは、真面目な律法学者たちを相手にしません。
イエスが姿勢を低くして、視点を下げたんだ、と私は感じます。
ところが、真面目な律法学者たちはしつこいんですね。やむなくイエスは立ち上がってこういいます。「あなたたちの中で罪を犯したことにない者がまず、この女に石を投げなさい」と。それからまた、イエスはしゃがんで、地面に何かを書きつづけられます。
すると、不思議なことに真面目な律法学者たち、ファリサイ派の人々の中で、年長の者からその場を離れていった、と言います。年をとればとるほど、私どもは、神様のご計画、御心の従えない「的外れ」を、いかにしてきたのかを思い知らされますでしょ。ですから、年長者ほど、「『的外れ』を犯したことのない者である」と言えない自分をよくよく知っています。イエスは臨床心理学者、クリニカル・サイコロジストでしょ。見事にまじめ人間たちの心理を見抜いておられたのでしたね。
その「姦淫の女」を囲んでいた真面目人間たちは、皆その場を離れます。そして、1人残されたイエスは、再び立ち上がって、その女に言います。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい(生きなさい)。これからは、もう的外れをするんじゃありませんよ」と。その女の心が、感謝と温もりとで満たされたことは想像できますでしょ。慈しみとはまさに、このイエスの優しさですし、その態度ですよね。
ふつうはこれでお終いでしょ。でもね、私はこの譬えを読んで感じることを記しておきましょうね。真面目人間は、イエスのような「人間らしい関わり」をしたいと思っても、なかなかできませんでしょ。ですから、イエスのことが疎ましくも、羨ましいのですね。ですから、鼻を明かしてやりたい、と謀略を巡らせるんですね。
でも、イエスはそんな下衆心は100も承知で対処します。しかも、自分の姿勢を低くして対処すんですね。ここがお見事でしょ。ですから、下衆な真面目人間を見下すこともありません。しかし、真面目人間の「本当の自分」を見事に悟らせることができるんですね。
私どもも、キリストに倣って、身をかがめながら、しかも、♪ イキイキ生きる ♪(釜石小学校校歌)、で生きたいものですね。
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