エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

お互いに価値を認め合う

2013-03-23 23:42:13 | エリクソンの発達臨床心理
前回はヌミノースについて触れました。

翻訳は第二段落の途中で時間切れ。

今日は第3段落に入ります。第1段落から第2段落にかけて記されていた「最初の儀式化」という、お母さんと赤ちゃんの間で繰り返されるバターンがなぜ大事かが、第3段落で明らかになります。それは、「最初の儀式化」が、お母さんと赤ちゃんが、お互いに価値を認め合うパターンを日々繰り返すことになるのか、それとも、価値を認められないパターンを日々繰り返すことになるのかの、非常に大きな別れ道になることが明かされるからです。「最初の儀式化」がお互いの価値を認め合うパターンになれば、赤ちゃんは根源的信頼感(定訳は「基本的信頼」で、原語はa sense of basic trustです。「なんとなく信頼している、『だいじょうぶ』という感じ」という意味です)を豊かに育むことができます。赤ちゃんは、「自分には値打ちがある」と信じることができますし、それと同時に、「お母さんは当てになる」と信頼することもできます。しかし、逆に、お互いに価値を認められないパターンが日々繰り返されれば、赤ちゃんは根源的不信感(定訳は「基本的不信」で、原語はa sense of basic mistrustです。「なんとなく信頼し損ねる=mis、『だめだ』という感じ」のことです)を深めてしまいます。赤ちゃんは、「自分なんかダメだ」と信じてしまいますし、お母さんに対しても、「どうせ当てにならない」と信じてしまうのです。

それでは、第二段落の冒頭から、翻訳を載せることにします。


 我々にとって重要なのは、この小さく陽気な決まったやりとりが、そら恐ろしいほどに深い世代の繋がり全体の中で、ささやかではあるけれども、切っても切れない絆として、正しく価値づけしてもよい、ということです。お母さんと赤ちゃんが、ここまで述べたような最初の儀式化において出会うとき、その赤ちゃんは、自分が生きていく上で必要ないろいろな物と、お母さんに世話をしてもらうことによって本来はバラバラな経験を一貫性のあるものにしなくてはならない必然性とを、星座を結びつけるように結びつけます。お母さんにしても、産後はいろいろと手助けが必要です。なぜなら、そのお母さんがたとえ母親として世話をする本能的な感覚を持っていても、また、たとえそのお母さんが母親になることを本能的にどんなに大きな喜びをもって望んでいても、そのお母さんはまた、一人の特別な赤ちゃんの母親に、特別なやり方でならなくてはならないことも、また事実だからです。こういった母親に、このお母さんは、不安で逃げ出すこともなく、決まったことや務めを強いられることに対して、大なり小なり怒りを抑えつつ、なるのです。自分と同じような人々が容認し、また、実際にそうする姿を目にする、母親として世話をする肯定的なイメージもあるけれども、それに加えて、否定的な母親像の要素もあります。この否定的な母親像こそ、このお母さんが決してやってもなってはならないものです。それは、このお母さんが(大なり小なり、意識的に)嫌いだったり、軽蔑したり、憎んだり、あるいは、邪悪な者、悪魔、汚れた者、人倫に反する者として恐れている人々かグループに典型的な、「よそ者の」系統ややり方を、そのお母さんが真似しないためなのです。あるいは、そのお母さんがノーと言っている母親のイメージに引きずられないためなのです。お母さんが、自分を優しく育ててくれた人々を見本とすることによって、自分の役割の中で認めらることは、幸せなことです。そのお母さんのお母さんらしさは、自分の赤ちゃんが世話に応えてくれることがしだいに増すにつれて、優しいお母さんだと、ますます認められることになります。赤ちゃんは、同様に、自分は優しいというイメージ(これは、公認された自己愛、と言えるかもしれません)を育むことになります。この「自分は優しいというイメージ」は、全能で、慈しみ深い神(ときどき、悪さをするのが不思議ですが)から価値があると認められることに根っこがあります。お母さんの産後の状況が、お母さんと赤ちゃんのやり取りを豊かにするけれども、本当の意味でお母さんらしい人ならだれでも、遅かれ早かれ、「生まれの母親」になれることは、明らかです。
 そのお母さんが自分の赤ちゃんを名前で呼ぶという事実を取り上げてみましょう。赤ちゃんの名前は、注意深く選ばれ、名づけの儀式で確かなものになりますが、親にとっても地域の人々にとっても、なくてはならないと思われます。それでも、どんなに事の流れがその名前を意味あるものにするとしても、その名前の意味が、今度は、お母さんと赤ちゃんの日々のやり取りの流れの中で、名前が繰り返し呼ばれる呼ばれ方に、ある程度、影響します。さらに、名前の意味は、世話をする人(達)にとっても、結局はその子どもにとっても、特別な意味のある、世話する際の心遣いも強調します。このようにそのお母さんも、自分自身に対して特別な呼び名で呼ぶようになります。こうして、非常に特別な意味を、お母さんも赤ちゃんもお互いに割り当てあうことは、人間の儀式化にある普遍的な要素の個体発生上の源なのですが、この儀式化は、顔と顔を合わせ、名前と名前で呼び合うことによって、お互いに相手の価値を認め合うということを土台にしています。



 以上が、第3段落の最後までの翻訳です。お母さんと赤ちゃんが、顔と顔を見つめあい、名前で呼び合うことによって、お互い相手の価値を認め合う、それがすべての関係の土台だ、ということが述べられています。これが非常に大事ですよね。繰り返し顔と顔を合わせることや、繰り返し名前を呼び合うことが、特別な価値ある意味を持つようになるからです。今の時代は、繰り返し顔と顔を見つめあい、名前と名前で呼び合うことを通して、お互いに相手を価値あるものと認め合うことが、驚く程おろそかにされる時代だ、ということ、および、身近にいる相手をお互いに価値あるものと認め合わないことに、現代社会のあらゆる病理の源がある、ということが、私のささやかな、しかし、確信に近い、現状に対する基本的な認識です。
 本日はここまで。

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