エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「あなたは私にとって大切なの」と相手に伝えるためにはどうしたらいいのか?

2013-03-24 22:57:20 | エリクソンの発達臨床心理
 今日は第4段落です。エリクソンがいかに奥深く、本当の現実を何でこんなに知っているのか、と僕は感じている部分です。

それでは第4段落の始まり始まり。


 人間には、生まれながらに、上記のように、日々お互いに価値を認め合い、その確証を与え合わなくてはならない欲求がある、ということを示すことがたくさんあります。私ども、心理面接をしている者は、とにかく、日々価値を認め合い、その確証を与え合うことがないと、赤ちゃんを根っこから傷つけることを知っています。その赤ちゃんは、自分の感じを肯定してくれる印象を探すことをあまりしなくなるか、全くしなくなってしまうことで、赤ちゃんは根っこから傷つくのです。この欲求は、人生のあらゆる発達段階で登場しますが、それは、次第にいっそう新しく、いっそう形式化され、いっそう多くの人が共有する儀式化(しまいには、儀式そのもの)を求めることになります。この儀式化では、顔と顔を見つめて、「価値を認め」合うことと、名前と名前を呼び合って、希望を一致させることが繰り返されます。こういった儀式化は、強い情緒的な絆を確かめるために、日々交わされる挨拶から、役割の交代を示す伝統的な挨拶、愛やら啓示やらにおける無二の出会い、そして、とどのつまりが、(大なり小なり)見事な銅像や絵画、あるいは、非常に多くの横断幕やテレビ出演によって価値付けされる指導者の「カリスマ」まで、幅広いのです。こういった出会いすべては、一番うまくいけば、一見矛盾したように見えることをいろいろ含みます。その出会いは、とっても楽しいのに形式があります。その出会いは、繰り返されるのでとてもなじみがあるのに、価値が認められるという新鮮な驚きがあります。動物行動学者が教えてくれるのは、動物界の儀式化は、特に、明快な一連の合図がなくてはならない、ということと、それは、本能的なパターン同士がぶつかり合うのを避けるためである、ということですが、人間においては、相手の価値を認めているのか、認めていないのか、はっきりしないこと(と、曖昧であること)に打ち勝つことが、儀式化の最も大事な役割ではないか、と私どもは考えています。なぜなら、私どもは自分の子ども達や子ども達一般を大事に思えば思うほど、憎たらしいという気持ちや、殺してしまいたいくらいの軽蔑する気持ちも湧いてくることから、子ども達からすれば、どうよく見ても、大人は気まぐれに自分を拒むこともあれば、自分を独占しようとすることもある、ということになります。子ども達は、大人を危険人物や魔女とまでは見ないでしょうけれども。私どもは大事に思ったり、尊敬したりする相手には、脅される感じが常々あるものですし、畏敬の念は恐ろしさにもなり、慈悲深い安らぎの場も、嵐のような怒りで壊される危険があります。したがって、儀式化によって、お互いの価値を認め合う、ということは、日常生活から宗教儀式に至るまで、繰り返し経験することが不可欠ですし、時がたてば、新たな意義深い形を見つけて、変化していかなければなりません。



以上が第4段落の翻訳でした。

どうですか?「あなたは私にとって大切なの」と相手に伝えるためにはどうすればよい、とエリクソンは言っていましたか?

そう、明快にあなたの温もりを態度で繰り返し示す、ということが大事なようですね。明快さと温もりのある態度、それこそ、「『光』を浴びている態度」と言えるでしょう。なぜなら、光があるところ、明快さと温もりが必ずあるものですから。

今日はこの辺で。

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