公平だけだと、人を大事にすることには到底なりませんね。
p121の4行目の途中から。
いま現在の社会の中では、人を大事にすることと、ごく普通の安心感のある生活とでは、根っから両立しがたい、という意見の人は他にもいます。そういう人たちの結論は、今日、人を大事にするという話をすることは、世間一般でいう詐欺をすることでしかありません。この人たちが主張していることは、殉教者か正気を失った人でなければ、人を大事にすることなど、今の世の中じゃぁ、できない、という訳です。ですから、人を大事にする議論はおしなべて、宗教家がするような説教でしかないのです。この当を得た視点そのものが、シニシズムを何の躊躇もなしに、合理化してるんですね。実際問題、こういった見方は、「私は良いキリスト者でいたいけど、真面目にそうしたら、ひもじい思いをするに決まってる」と感じている平均的な人が、口には出さないけれども、みんな持っているんですね。この「過激派」が、道徳的に「どうでもいいや」というニヒリズムをもたらすんですね。「過激派」も一般的な人も、人を大事にできないロボットになり、その違いは一般の人は自分がロボットとは知らないのに、「過激派」は自分がロボットと知り、それを「歴史的必然」だと理解している点です。
人を大事にするのは、キング牧師やマザー・テレサのような人じゃなきゃぁ、できないと思っているのが普通だと、フロムは言います。そうなのかもしれませんね。子どもたちにこんだけ「正しいこと」を押し付けている、たくさんな人を見て、今の世の中で人を大事にすることは、ほとんど不可能なのかな? と感じる時もありますね、実際。
でもね、それは「歴史的必然」なんかじゃぁ、ないでしょう。
誤解を恐れずに申し上げれば、日本では、「消費税があると、人を大事にできない」と言えることを最近知りました。日本が消費税を導入したのが、1989年(平成元年)4月。バブルが崩壊したのが1991年3月。金融引き締め、公定歩合の大きな引き上げが直接の原因だと言われています。でも、消費税が導入以来、日本は「失われたに20年」が始まった、といっても、誤差の範囲でしょうね。いま日本中に「愛着障害」と呼ばれる子どもが溢れ、日本の学校教育は事実上崩壊しているのは、「消費税」と「労働規制緩和」という名の労働者の人権大破壊によると言っても、過言ではないんですね。つまりは、政治的失政、その愚作の故に、子どもたちが割を食っているんですね。
私たちがしなくちゃならないことは明白ですよね。
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