自分の人生の必然性、自分の人生を唯一無二と思えた人は幸いなるかな瞳の美しさ このブログと全く関係のない子です 学校でクラスから飛び出す、教員のいうことを聞かない、授業に出ても、授業を「妨害」するような発言を繰......
今宵の聖書の言葉,怨まれる人達 δεδιωγμένοι デディオグメノイ。怨まれてうれしい人って,おそらく一人もいませんね。でも,その怨まれることが何で恵みなんだろうか?
これは,『新約聖書』の最初,「マタイによる福音書」の第5章10節です。
「10さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、
天国は彼らのものであるから。」
「山上の説教(垂訓)」と呼ばれるイエスの教えの最後のところですね。「迫害される人々」と訳されているのが,δεδιωγμένοι デディオグメノイ。
ここのところも,実に臨床的。サイコセラピーの現実です。
この「天国」は,「神の支配する関係」のことですから,「損して始めるやり取り関係にある,はじける悦びを分かち合う関係」です。「義」も「損をして関わる」ことでしょ。
この「損して関わる人」は,上下関係につけ込んで,自分が得しようとしている者にとっては,許しがたいことなんです。ですから,怨まれ,嘲りの的になり,意地悪されることのなる。ところが,その虐めている連中は,上下関係につけ込んで得しているんだけれども,心からの喜びを知りませんから,日々の生活に退屈してんです。つまらなそうな顔してますよ。
ですから,イジメられても,はじける様な喜びに比べたら,何てこともありません。退屈している暇もありません。
ですから,イエスは,
「10さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、
天国は彼らのものであるから。」
と言ってるんですね。
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