大竹しのぶさん。 ≪本当の自分≫を生きているからこそ、演じる時だけ、非日常の世界では、意識して「仮面」を被んることができるんですね。≪本当の自分≫を生きずに、日常的に「仮面」を無意識裡につけていたんじゃぁ、演じる時の被る「仮面」がウソとゴマカシになっちゃう。おもしろいでしょ。
p348の第2パラグラフ。
私がここで、これまで繰り返し、次第に良い形で、申し上げてきたことを繰り返すのはなぜなのか?もちろん、私は≪神が支配するところ≫を≪私≫の時という考え方と結び付けたいと願っています。そのために、私はなかんずく、イキイキしている性質とまとまりがあるという性質に加えて、中心であると言う性質、すなわち、いろんな出来事の中心に自分がいる、ということを求めてきました。このようにして、能動的に選択して悔い改めれば(ギリシア語では、メタノイアですが、ルターはこれを、「180度の方向転換」と訳しています)、人は生きる場で、中心でいられるようになります。この言葉固有の、悔い改めに伴う痛みはあるけれども、悪い良心(訳注:自分も隣も否定するメッセージをし続ける良心)によって、ドヨーンとすることもなく、神の裁きによって禁じられることも、無用になります。これは、「≪私≫という感じ」がキビキビ生きてくることへの一つの段階であるように見えますよね。このことを、繰り返し繰り返し、励まして言われていることなんですよ。「目覚めよ、意識を高く持て、良く見なさい」と。
明確ですね。目覚めていなさい。それは自分も隣も裁いて、元気を奪い去り、ドヨーンとすることになる「悪い良心」を投げ捨てて、≪本当の自分≫<神様との≪やり取りのある関係≫を毎日毎日続けていくんですね。それは人生の主人公でいられることのエッセンスなんですよね。
こうすれば、お芝居では「仮面」を付けることもできますし、そうすれば、人に感動と言うプレゼントをすることもできます。自分の人生の主人公ですから、仕事では「わき役」に徹して、子どもを人生の主人公として認め続けることだって、できるんですね。実に面白いですよね。
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