2013-09-30 02:11:20 | エリクソンの発達臨床心理
脱儀式化の状況は、生きてる目的、方向性がハッキリしませんから、いわば、外からも内からも動かされやすく、踊らされやすい状況になります。たいていは「人間を上下2つに分けるウソ」の慣性、力は猛烈ですから、その力に飲み込まれているケースがほとんどであると言って過言ではないでしよう。この時、自分が踊らされているという自覚はないのが普通ですから、自分が何をしているのかにさえ、無自覚であることが多くなります。ましてや、その態度に、まさか「『下』のものはぶっ殺せ」というメッセージが含まれているなどとは、夢にも思っていないのです。
大竹しのぶさん。どなたでも知っている「大女優」。
「女優として大切にしていることは?」と言う質問に、インタヴューの中で応えています。
女優、俳優は、人の人生を「演じること」が務めでしょう。ですから、そこには「装うこと」も伴うはずですよね。でも、「演じること play」と「装うこと pretend」は似て非なるものでしょう。これは Toys and Reasons を翻訳したときに最初に翻訳した部分にエリクソンが言っていたことですね。演じるのは幼児前期、トイレット・トレーニングから始まるんでしたね。その時に「自分が分裂する生育歴上の始まりがあるばかりではなく、人類が分裂する生育歴上の源もある」と述べていましたね。
「装うこと」はウソとゴマカシの始まりです。しかし、「演じること」が迫真の演技に通じますように、人間の真実を表現することになる場合もあるんですね。そうすると、そういう演技を鑑賞したものは、カタルシスを感じ、心ふるわせる体験ができますでしょ。ところが、「装うこと」には、迫真性もなければ、人に心ふるわせる体験を提供するだけのちからは全くないでしょ。
ですから、そこらへんのことを、別にエリクソンを読んだわけじゃぁないでしょうけれども、「大女優」になるべく定めの人が持つ直観力によって、感じているものがあるからでしょう。先の「女優として大切にしていることは?」との問いに対して、大竹しのぶさんは応えて言います。
「お芝居でもウソはつきたくないけど、実生活でもウソつきなくないです」、「自分の心にウソをついて生きていたくないですね」、「お芝居にも良くない感じがします」
ってね。
皆さん、どうぞご大切にしてくださいね。
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