古い見方は、「親の見方」です。それを捨て去ることが2度生まれの条件ですが、そうするときに、「親」は少なくとも、寂しく感じるでしょう。ある時は、「親」は「子ども」に対して、「捨てない」ように「指導」するかもしれません。さらには、「捨てよう」とする子どもを脅したり、「捨てた」子どもに「復讐」(「倍返し」では済まないでしょう!)したりするかもしれませんね。
熱心に従わなければならないことは、自分を確かにする道がぐらついていること(アイデンティティの危機)の一つの側面です。私どもは、臨床心理士として、こういったすべての傾向や傷つきやすい気持ちに責任があります。拒否しなければならないことが、自分を確かにする道がぐらついていることの、もう一つの側面です。10代と20代前半においては、たとえ、特定の価値への傾倒したり、特定の価値に対する関心さえなかったりする場合でも、若者たちは、自分の指導者や、チーム、難しい活動、困難な技術に献身するものです。同時に、若者たちが示すのが、人々(自分自身も含む場合もあります)を進んで、捨て去り、否定する、激しくて不寛容な傾向です。この拒否が、人を見下し、場当たり的で、間違いで、愚かな不親切である場合が多いのです。
熱心さと拒絶の共存が、10代と20代前半の若者の特徴のようですね。熱心さに問題があることもあるでしょう。しかし、深刻なのが、その不寛容で不親切な拒絶です。エリクソンがここで指摘している通り、人を見下し、場当たり的で、間違いで、おろかな不親切である場合が多いのです。
この熱心さと拒否はまるで、安倍晋三首相の、靖国強行参拝や特定秘密法強行採決のことを言っているみたいではないでしょうか?国民の人権や隣国の国民感情を拒否し、「いつか来た道」に血眼に熱心ですね。阿部さんて、そんなにお若くないはずなのに、なぜでしょうか?
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