年寄りにも大事な、根源的信頼感=神様もう1つの譬え話 低い姿勢をとるイエス 改訂版 二コラ・プッサン「キリストと姦淫の女」1653 ルーブル美術館 昨日は「ブドウ園の労働者」の譬え......
今朝の聖書の言葉は, ἐνδύω,エンデュオー,着る。
『新約聖書』のパウロの手紙,「ローマ人への手紙」第13章12節と13節に出てきます。でも,このἐνδύω は,とても不思議なことばです。ἐν 「内側に」とδύω 「着せる」の組み合わせで,文字通りだと,「内側に着せる」という意味になるからです。
「救いの時の近さ
11ご存じのようにこの時代はすでにあなた方が眠りから覚めるべきときです。今は信仰に入ったときよりも、われらの救いは近いのです。12夜がふけて、日が近づきました。闇のわざを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。13日のあるとき、折目正しく歩みましょう、宴会と酩酊でなく、淫乱と放蕩でなく、争いと妬みでなく。14主イエス・キリストを着なさい。肉の思いを欲望にしないように。」
私どもも,朝が来たら,パジャマを脱いで,スーツや制服を着ますね。着る,身に着ける,ということは,毎日のことでしょ。スーツや制服を着ると,出かけるモードになりますね。
光の武具や主イエス・キリストを身に着ける,となれば,スーツや制服以上に,内側,心を整えることと関係しますよね。それが「内側を着せる」という意味のἐνδύω エンデュオーになったんだと思います。ですから,辞書にも,「比喩的に身に着ける」という意味にもなることが記されています。
光ですから,隠し立てしたり,コソコソする感じはないでしょ。むしろ,光は燭台の上にかざすものですから,ハッキリとしています。しかも,明るくて,温もりがあるということでしょう。イエス・キリストの性質を身に帯びる,ということになれば,自分から損して始めるやり取りをして行く性質,そのキラキラした感じ,元気を人と分かち合う関係を作り出す性質,ということになりますね。
そういう感じで,やって生きましょう。
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