ひとをだいじにすることができないのが、今の時代の特色のようですね。みんなシステムのロボットになっているからですね。無思考の「悪の凡庸さ」です。
p121の第2パラグラフ。
私が確信していることは、人を大事にすることと「普通の」暮らしが、絶対的に両立できない、ということが正しいのは、抽象的な意味においてだけだ、ということです。資本主義社会の根底にある「原理」と人を大事にする「原理」とは、両立しがたいものです。しかし、現代社会を正しく見れば、それは複雑な現象です。たとえば、役にも立たない商品をセールスするセールスマンは、ウソをつかなくては、経済活動ができません。熟練労働者、化学者、内科医。同様に、農家、労働者、教員、いろんなビジネスマンだって、経済的な活動を止めないと、人を大事に思えません。資本主義の原理と人を大事にする原理が両立しがたいと分かったとしても、「資本主義」そのものは、複雑ですし、常にその構造を変化されていることも知らなくてはなりません。その構造の変化は、2つの原理が一致しないこととも大いに許せば、個人の自由の範囲も大いに許すのですから。
資本主義も個人も、その自由度が大きいからでしょう。資本主義の原理と人を大事にする原理が両立しなくても、2つの自由度の大きさがあればこそ、現実には一致する可能性があることを、フロムはほのめかしているのでしょう。
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