「天にも昇る悦び」は自分の努力では手に入れることができません。
Young Man Luther 『青年ルター』p201の最終行途中から。
たとえばね、「考古学的な」次元がありますね。思考の層があって、講義のための準備ノートやら、講義草稿やら、テキストに、後から書き込んだものやら、貼り付けた物やらですね。フォーゲルザンクは紙やインクの種類を調べ、筆跡の違いに注意を払い、ルター自身がノートのいろんなところに付けていて、下線や欄外の自己賞賛の言葉によって示された、個人的な重要性が揺れていた、その揺れを分析しました。こうして、フォーゲルザンクは、ルターに霊的な嵐の道すじを発見しました。それは、詩編講義の文書を貫き通すものでした。
ルターの霊的な嵐とはいったい何だったのか? それは、損を覚悟で生きて、十字架の死を死んだイエスの、徹底的な真実さ、誠実さです。玉置浩二さんの言葉を使うなら、バカが付くほどの「正直者」に徹する姿でしょう。裁き、最後の審判と言えば、怖い感じがしますし、日本人でしたら、コワーイ顔つきの閻魔大王がいるとイメージしがち。でもそこのおられるのは、怖そうな閻魔大王じゃあなくて、バカ正直に徹してくださる方だったとしたら…。それは、裁かれると思っていたのに、許される感激でしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます