ウィリアム・ジェームズによると、「私」には、知る本人である「アイ I」と、知る相手である「ミー me」もあるといいます。課題は、「私」が元来持つこの二重性を、バラバラなままにするのではなくて、いかにまとまりのあるものにするのか、ということにあります。
p324の3行目から。
聖書の時代に戻りましょう。ここでは、二つの問いを示すのみとさせてくださいね。1つは、今までに申し上げてきたすべてと、モーセが報告してくれたことに関係があるのかどうか? ということです。そのモーセの報告とは、モーセが神様のお名前を尋ねて、得た答えです。すなわち「私は、今を生きているものです」。もう1つは、今まで申し上げてきたことすべてと、イエスが、すなわち、言葉を運ぶ人が、(本当に)報告されたこととの関係です。その報告とは、「アーメン(本気で)、私はあなた(がた)に話をします」と言って、話を終えるのではなくて、話し始めた、ということです。
ここは、この文書の中で、最も重要な2か所のうちの一つです。「≪私≫という感じ」は神様のお名前「私は、今ここに生きている存在です」と深ーく関係する。また、「≪私≫という感じ」は、イエスが語り始める際の、冒頭の常套句「アーメン(本気で)、私はあなた(がた)に話をします」とも、深ーく関係するんですね。
そのことを覚えて、今後の展開を愉しみにしていただけたら、と思います。
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