聖書(マタイによる福音書21章21節)の中に、「ほんのコレッポッチでも、神様を信頼する信頼があれば、山も動きます」と言う言葉があります。「まさか山まで自分で歩き出すのなんて、マンガだろう」と思う向きもあるでしょう。聖書がウソを言っているのでしょうか?
本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。
イエスにとって信仰とは「信頼してやつてみること」です。…「この山さえなければ」と思うのなら、神が力をかしてくださると信頼して、自分のできることからまずやってみる、そういうことです。小さなショベルとバケツでも何でも持ってきて、山の裾をけずってバケツに盛って、とことこと湖まで運び、ざーっとあける。その繰り返し、やってごらん。いつか、山は移っている。信仰=信頼してあゆみを起こすとは、そういうものなんだよ、とイエスはいっているのです。
神様を信頼するって、教会でお祈りして、後は神様まかせ、ということが多いんじゃないですかね。でも、それは、神様を信頼していることとは、何の関係もありません。
神様を信頼するとは、信頼して、そのように生きること、生活すること、人と関わることですね。「神さまを待ち望む」=ヒュポメノーも、ただ、教会やお御堂で、じっとしている、と考えたら、大間違い。信頼して、そのように、ひとりびとりの現場に踏みとどまって、逃げ出さないで、信頼の関わりを、人や物事と関わることですね。
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