「儀式をする関係」は、とっても、個別的なのに、ある集団内にとっては、非常に典型的、という相矛盾した性質を同時に持ちまして、誠に臨床的です。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p44の8行目途中から。
この手続き全ては、どれだけの間隔で、身体とリビドーが、何かが欲しくなるのか、という“間”に重なります。というのも、この全てが、その子どもがだんだんと分かるようになる認知力と、死に物狂いのいろんな経験を、世話されることによって一貫したものにしたい、という情熱に応じたものになるからです。その母親には、産後にあっても、いろんな点でやらなくちゃならないことが、いろいろあります。というのも、この母親は、1人の母親になったことに本能的な悦びを感じたとしても、この母親もまた、特定の子の母親に、特別なやり方でなる必要もあるからなんですね。
これは具体的なことが書いてないと分かりにくいところかもしれませんね。たとえば、おっぱい。男の私が言うのもなんなんですが、エリクソンも男ながら、この点で詳しいので、お話しますね。
おっぱいは、眼の前にいる赤ちゃんのニーズに合わせて、上げなくてはなりません。おっぱいを上げる間隔が長い子もいれば、短い子もいます。母親はその子に合わせて挙げますね。また、はじめはぶきっちょに上げてたお母さんも、だんだんとおっぱいを上げることになれてきますでしょ、そうすると、はじめは一回おっぱいを上げるのに時間がかかったのに、だんだんと要領がよくなって、短時間で済ませることができます。そのようにして、1人のお母さんでも、子どもが長男の時と長女の時では、おっぱいの上げるバターンが変わります。その一つ一つが「儀式をする関係」になることも、できるんですね。
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