本棚の部材が緩んでいたのに、なかなか修理ができずにいましたが、今日思い立って、その棚にあったCDを全部出して、部材を組みたい直し、接着し直しました。すっかり元通りになって、CDをその本棚に戻すと、たまたま、昔雨宮慧先生が、教育テレビで通年で講義した「福音書のことば」を録画したDVDが目に留まりました。
久しぶりにそのDVDを見ましたが、そのテキストも本棚から出して見たところ、この春にあれだけ探した件が、このテキストにあることが見つかりました。その件とは、「創世記」第15章6節の逐語訳です。 この件については、「「日常生活の中にある超越 なぞなぞの答えは何だっけなぁ?」「キリストのまこと 「ガラテヤ書」から考えました 改訂版」と題して、以前にもこのブログで取り上げましたね。
そのテキストの同じ所に、今日のタイトル「出来事を生み出す言葉」が出てきます。今の日本のように、ウソとゴマカシだらけの言葉だらけですと、言葉は、真実を隠し、ゴマカシ、あいまいにするためにある、と考えがちです。残念ですが、それも仕方がないと、思わざるを得ない現実があまりにも多い。
しかし、「言葉」の本来の働きは、洋の東西を問わず、「出来事を生み出す」ことであったことは明らかです。日本にも、「言霊」と言う考えがありました。中国にも、白川静先生が教えて下さるように、「言」は口にしたことを違えた時の入れ墨刑を示します。ユダヤ・キリスト教でも、言葉を違えた時には、身体が上下2つにバラバラにされても、良し、ということがありましたね。、
このテキストで、雨宮慧先生は教えてくれています。イエス・キリストはね、
1) 見る
2) 近づく
3) 言葉を話す
の3つがセットになる時には、その話し言葉が
4)出来事
を生み出す、ということを。
そして、この4つは、イエス・キリストのこととして語られるのですが、≪真の関係≫においては、いつでも、どこでも、この4つが必ずある、ということが分かります。
実に不思議ですね。
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