ヨーロッパでは、特に哲学においては、「パレーシア」はレトリックと対立する伝統があるといいます。哲学のような堅い学問には、今でもその「中身」で勝負、という感じがあり、それはレトリックの排除と結びついた感じが今でもありますね。
しかしながら、「パレーシア」が、フランス第一帝政期に、美文家の著作の中の、レトリックの分野で共同されている印を見つけることもできます。たとえば、クインテリオンの『礼拝堂の研究所』(第九巻、第二章)では、クインテリアンが説明するのは、言葉のあやが特に、聴衆の感情を強めるためにあっている、ということです。そのような言葉のあやを、彼は「エクスクラメイティオ」と呼んでいます。こういった感嘆符と関連して、「偽物だったり、上手くでっち上げたりする」のではない、とクインテリアンが記しているように、一種の感嘆符があります。この種の自然な感嘆符は、彼は「自由な話」と呼んでいて、彼によれば、コルニフィキウスは「免許」と呼び、ギリシャ語では「パレーシア」と呼ばれています。「パレーシア」は、言葉のあやの中では、一種の「比喩」ですし、しかも、次の性質があります。すなわち、完全に自然だからこそ、まったく言葉のあやがない、ということです。「パレーシア」は、聴衆の感情を強めるという意味では、零なのです。
パレーシアは、その言葉を聴く者の感情に訴えかけない、非常に理性的な技法であることが分かります。自分の頭で考えたことを、他者と分かち合うときには、非常に大事なものとなるはずです。
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