パレーシアの主なやり方が、対話であることがハッキリしました。対話は、民主主義の根源的な方法論であるのですから、パレーシアは民主主義の根幹をなす、と言えるでしょう。
「パレーシア」がレトリックと対立することは、『パイドロス』(プラトンの対話編の1つ)でも貫かれています。ここでは、お気づきの様に、主題は話し言葉と書き言葉の対立という性質にあるのではなく、 本当のことを話し言葉にする「ロゴス」と、そのように本当のことを話し言葉にすることができない「ロゴス」の違いに関心があります。「パレーシア」とレトリックの、この対立は、プラトンの著作を通して紀元前4世紀に、非常に鮮明ですが、その後も何百年もの間、哲学的伝統では続きます。たとえば、セネカに見出せる考え方は、個人の会話は、率直に話したり、本当のことを話し言葉にしたりするためにある、最も良い方法である、ということです。そして、このような会話では、レトリックの工夫や飾りは不要なのだということです。2世紀になってさえ、レトリックと哲学の間の対立は、非常に明確で、しかも、大事なことです。
「パレーシア」とは、レトリックの工夫や飾りなしに、本当のことを話し言葉にすることなのですね。
これは、どこに書いてあったのか、思い出せないのです(初期の著作だったと思います)が、内村鑑三が、文章がへたくそでも、真実に述べれば、自ずと意図が伝わるものだ、という趣旨のことを述べた文章があります。その精神と、パレーシアは通じるなと、今回のところを読んで、そう感じましたね。
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