フロイトは、人をモノ扱いして良い、などとは金輪際言っていない、ということですね。でも、私も含めて、誤解している人が多いのじゃぁないかしら?
p234第2パラグラフ。
その代わり、セックスの相手を得ようとする努力と、大事にする相手を得ようとする原動力とを組み合わせた、フロイトの中心的な性理論が指摘しているのは、相手の性的能力と潜在能力を十分に引き出すことが、自分の性的能力と潜在能力を十分に引き出すのとちょうど同じになるようにする、というお互い様が根底にある、ということです。フロイト理論によれば、1人の男が、一層その人ならではに、なるのは、1人の女性が、一層その人ならでは、になる範囲においてだ、ということです。その逆も真なりで、それは、この特別にひとりびとり異なる2人だけが、お互いに相手の個性を高め合うことができるからなんですね。フロイトの意味で「性器のある」人は、カント版の黄金律に従って行動しがちです。というのも、「性器のある」人は、自分でも相手でも、人を常に目的として処しますが、決して人を手段の様にはしないからです。しかし、フロイトがカントの倫理的原理に付け加えたものは、私どもの内的力の原動力を、私どもが研究すると同時に、影響力を与える事に道をひらいた方法論でしょう。というのも、その内的な力は、私どもの強みにとっては、きらめく熱であると同時に、私どもの弱みにとっては、くすぶり続ける煙だからです。
フロイト理論における「性」は、通常考えられているような「性」ではなさそう。男も女も、お互いのポテンシャルを最大限引き出す際には、「性的なものも含む」と言う程度のもののようですね。その意味では「禁欲主義」ではないのですが、かといって、放縦であるはずもない。通常「放縦」の方に傾いて誤解される嫌いがありますもんね。むしろ、アクセントは、お互いに高め合い、価値を認め合う方にあるようです。
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