カウンセラーのお仕事は何をすることでしょうか?
私がその答えを知っている、などと言うことはできません。1つ大事なこととして思うことは、河合隼雄先生の言葉です。『臨床心理学ノート』(金剛出版)p.137の言葉です。
「自分はあくまで『個人を尊重する立場』で発言しているのに、教師たちは『管理主義』で駄目た、などと嘆くのは馬鹿げたことである。人生は常に二律背反的で、個人も大事、全体も大事なのである。」
これはカウンセラーが陥りやすい罠を見事に示してくれているところです。個人の尊重と言えば、民主主義の要ですから、文句のつけようがない。しかし、その時、それだけを言っていたのでは、「馬鹿げている」ということを忘れがちなんですね。二律背反に留まることが、それだけエネルギーがいることだからです。「しんどいなぁ」と感じやすいからです。
でも、そこで私どもカウンセラーはどうすればいいのか? 中には、組織と集団に埋没して、個人の立場にたって、クライアントの立場から、ものを言うことができない者もいます。そういう人は、まず臨床で力を付けることが大事ですね。臨床である程度、クライアントのためになる仕事ができる者は、その個人の立場から、そのクライアントの立場から、物を言うことです。しかし、それだけ言うのは、河合先生が教えて下すっているように、「馬鹿げている」のですから、全く足りません。全体を考えるのですね。ですから、個人の立場、そのクライアントの立場からものを言うことを、遠慮がちに、しかし、堂々と言う訳ですね。ものの言い方までが二律背反的になります。
でも、それだけでも足りない感じです。私も「くれない族」なのかもしれませんね。クライアントのところに行くときには、全体の中でそのクライアントの立場に十分に立ちきれていない自分を許してもらわなくてはならないからですね。でも、その場では、≪陽気で楽しい≫感じで関わります。ここでも、「許してもらう」ということと≪陽気で楽しい≫感じの二律背反を生きることになります。
先ほどまで、本田哲郎神父の番組を見ていたのですが、イエス・キリストは常に、「サービスをする側にではなくて、サービスを受ける側におられる」、「低みに立たされている側」におられる、と教えられました。その意味では、イエス・キリストは、カウンセラーである私の側ではなくて、クライアントである子どもの側におられる。ですから、全体に立ちやすい人たちに、いつでも、子どもの立場、個人の立場から見ること、その視座を提供し続けること、そして、そこからアクションが起こせるように、話し合いの場を設けていくことが大事になるはずですね。そして、その場で、「低みに立たされているもの」の視点が、「全体の視点」になるように、いつでも何度でも話し合うことを大事にしていく訳ですね。
これでも十分ではありません。それでも、それをする毎日ですね。
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