柏のような事件があるのは、私に言わせれば、今の日本の危機への警鐘です。震災や原発のように、眼に見える形で破壊が行われているケースばかりではないのです、今の日本は。それと比べても、はるかに戦慄すべきは、私は心の荒廃だと思います。希望を失っている、失わせている状況です。マザーテレサが昔言っていたことを思い出します。
「物の貧しさよりも、心の貧しさ(heart poverty)の方が、解決するのが難しい」。
子ども時代にどれだけ、楽しい思いとぬくもりを体験したかで、その後の人生はかなりの部分が左右されてくると思います。ですから、その時期にかかわる大人は、できるだけ心を込めて、子どもとの時間を大事に楽しんでもらいたいのです。
臨床家であれば誰もが繰り返し出会うのは、いかに、「自分の子どもがあんなおじさん、あるいは、おばさんのようになっちゃうかもしれない」と、親が不安におもっていると、子どもを特定の方向性にかりたてることになるか、ということです。「○○みたいになっちゃうよ」と言っている親自身がいい模範にならない場合は、特にそうですね。ルターの父親も模範的な市民にはなっても、家では、運命的に外面とは別の自分に耽っていたようですね。この父親は、自分の子どもたちに対して癇癪を起すとき、一番の癇癪を落としました。これが、自分の父親があなたたちを罰するときは、愛と正義からなのか、それとも、むしろ、気ままで悪意のある気持ちからやってるんじゃないか、と、マルティンが疑う、そのもとになったと思います。子どもの時に感じた疑いは、大人になると、マルティンの修道院の師が気づかざるを得ないほど、暴力を振るう父なる神にも投影されました。「神があなたを憎んでいるのではない、あなたが神を憎んでいるんです」師の一人がそのように言っています。マルティンは、自分の救いを死に物狂いで探すとき、神様を裁き主として認めることができるくらいに、神様は必ず最善にしてくださる、神様は必ず救ってくださる、という答えを探していたに違いありません。
≪親が不安に思う⇒親が子どもを叱る⇒子どもが自分と世間を疑う≫という悪循環ですね。しかし、ルターは、その疑いのおかげで、≪必ず最善にしてくださる神≫、≪必ず救ってくださる神≫にたどり着けました。しかし、柏の青年は、殺傷事件へと向かいました。この2人は案外似ていると思うのですが、どうしてこんなに結果に差ができたのでしょうか?
ですから、私ども、子どもと関わるものは、一層ハッキリと意識して、子どもに対して、楽しく、ぬくもりのある時間を共有したいのです。
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