千葉県柏市で、24才の有為の青年が、絶望的な殺傷事件を起こしました。「臨床犯罪学」など罪を犯す人の心理に「詳しい」とされる人のコメントも新聞に紹介されています。そこでは自分の「存在誇示」だとか、「裏を返せば、孤立感」などと書き立てられています。
私は、ここで、エリクソンと心ある人物の言葉を紹介して、なぜこのような事件を日本社会は繰り返しているのか? それを真の意味で食い止め、建設的な方向にどうしたら方向づけることができるのか? それを皆さん自身が考えるための素材を提供したいと考えました。
最初に取り上げるのは、児童文学の石井桃子さんです。その「子どもたちへ」と題する一遍の詩を紹介します。
子どもたちよ
子ども時代をしっかりと
たのしんでください。
大人になってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の「あなた」です
次はエリクソンの文書です。
1つの楕円→2つの自己中心の円(円満?):儀式化のまとめ その2
儀式化は、2人の人がやり取りする中で、お互いに価値を認め合うものであり、自分を中心と認めると同時に、他者も中心と認めるやり取りです。儀式化は、2つの中心を持ったやり取りなので、楕円形をしています。この楕円形を成したやり取りがあること自体が、やり取りをする2人がお互いに価値を認め合っていることになりますから、この2人は助け合い、補い合うようになります。信頼関係に基づいた、平和と安心が生まれます。2人がやり取りをして、助け合い、補い合うからこそ、儀式化は楕円形を描くのです。
今回は儀式化のまとめの後半です。1つの楕円が分裂して、2つの自己中心の円に分かれる危険が語られます。それは、2人の間にやり取りが失われて、助け合い、補い合いもなくなってしまうからです。バラバラとなって、2つの自己中心ができれば、 「どっちが上か」を争う ようになることでしょう。家族の病理~社会病理の始まりです。バラバラになることが、全ての不安・思い煩い(重い患い?)と全てのウソと争い(戦争)の始まりだからです。
4. 儀式化は、芽生えつつある、いくつもの認識パターンを、その地域に住む人々が「共に見る」一般的なヴィジョンのために、役立つものにしてくれます。たとえば、ユーロック・インディアンの食事の例では、私はそう思ったものですが、儀式化は、おっぱいをもらう時や、実際に世話を焼いてくれる頼りになる人たちと、赤ちゃんが出会う時に、感覚運動的やり方で覚えたことを利用するばかりではなくて、正しい部類のものや人を、悪い部類のものや人から区別する、成長しつつある分別を利用し、育むことでもあります。
5. 儀式化をお示しすることが、私どもの特別な意図になるでしょうから、それぞれ連続する舞台(発達段階)において、儀式化は、あらゆる儀式的意味(ここでは、聖体を口に含む、聖餐式の意味です)に、不可欠ないくつかの側面を発展させてくれます。その儀式に不可欠な側面は、後ほど、大人の儀式の目録にある際立った要素であることが分かるようになるでしょう。
6. 儀式化は、役に立つのであれば、どんな社会でも、主要な諸制度の一つにとって不可欠な、社会的区別、という経験を発展させてくれます。ここで、社会的区別とは、命じられた良い行いと、恥知らずで罪深く、大人になってから法廷で出くわすような様々な行いとを区別することです。
7. そして、最後に、儀式化は、自分を確かにする独自の道を次第に発達させるための心理社会的な基盤を提供してくれます。自分を確かにする独自の道は、青年期のなると、様々な「堅信礼」の儀式によって、印(色・薫り・雰囲気)がつけられます。これは、「第二の誕生」です。それは、子どもの頃に自分を確かにしてくれたすべてを、物の見方と、何が信頼できるのかということを組み合わせた、世間の常識の中に組み込みます。たほうで、儀式化は、望ましくもなく、邪悪だし、よそ者を思い出させもするもの、すなわち、「自分より下」の人間たちを思い出させるもする、あらゆる望み、あらゆるイメージに対して、自分たちと価値観が相容れない存在だという、レッテルを貼り付けます。
後半戦は、儀式化のアンビバレントな側面が示されます。
正の側面を取り上げれば、儀式化は自分を確かにする道を次第に発展させてくれる基盤になるものだ、といいます。また、儀式化は、正邪、善悪、浄不浄を分ける分別を育んでくれる、とも言います。自分を確かにする道は、その人ならではの印(色・薫り・雰囲気)がある、というのも、嬉しいです。逆に申し上げれば、儀式化がなければ、自分は育たないし、自分を確かににすることもできない、ということでしょう。
儀式化の、負に傾く、“危険な香り”のする側面を取り上げれば、それはすなわち、「人間を上下2つに分けるウソ」に関わるかもしれない特徴です。人がいったん儀式化のやり取りを失ってしまえば、儀式化は、いつでも、村八分とあらゆる邪悪な暴力を生み出す温床(儀式主義)にもなりえます。
もう一つエリクソンの文書です。
「攻撃性」の賜物とやり取りの範囲とルールなど
子どもの時期が厳しく苛酷な時期になりやすいことを意識して、子どもと関わることが大事であることが分かりました。また、遊びの目的が、やり取りをするためであることが先取りして明記いたしました。
今日は「攻撃性」の賜物と、「あんた、邪魔なのよ」について、です。
一つの根源的で、ほぼ無邪気な「攻撃力」は、ピチピチしている活動に生気をあたえるものですが、またそのようにして、陽気で明るいあらゆる活動にも、生気を与えるものです。攻撃力は、成長している生物が、この世に存在する、その実存に単純に属しています。aggredere(「攻撃」を意味するラテン語)の、まず第一の意味は、楽しく陽気なやり取りを求めて、物や人に歩み寄ることです。ただし、その時、相手のゆとりを邪魔することになるかもしれませんが、意図においても、感情においても、敵対する気持ちはないのです。しかし、攻撃力を「ほぼ無邪気」であると呼んだのは、やり取りによって人のゆとりを邪魔すると、心の中では、欲求不満と激しい怒り、恥と「自分は悪い」という気持ちをすぐに経験することになるからです。というのも、個人が成長し発達するためには、ゆとりが必要なのに、最初から、その文化の仕来りを、自分の行動に取り入れたり、自分の良心に当てはめたりすることによって、自分のad-gression、つなわち、自分が物や人に歩み寄ることを、制限するようにならなくてはならないのも、人間の実存の根源的な事実です。その文化の仕来りは、性質上、動物の本能に組み込まれたものではないので、やり取りをする範囲とルールも決めなくてはなりません。それに、その仕来りは、ある種のゆとりを約束する、世界に対する全体的な見方を、人のゆとりを奪い取ることを許す方法と一緒に、すべての人に提供しなくてはなりません。
ここは臨床上、極めて重要で、実践的なところなのです。
ひとつは、「攻撃的」な時ほど、その人は攻撃され否定されることはないからです。エリクソンがラテン語から説き起こしている通り、「攻撃」は本来、物や人に歩み寄ることなのです。その歩み寄りは、その相手とのやり取りを求めてのことですが、相手のゆとりを奪うことにもなりますから、受け入れられる時ばかりではありません。「あんた、邪魔なのよ」などと言われることだって、必ずあります。歩み寄っても、受け入れられないことが多いと、その歩み寄りに次第に力が入ってしまいます。その力が入りすぎた歩み寄りad-gressionこそが、「攻撃」に見えるのです。それは英語のstrokeという言葉にもよく表れています。strokeは、元々「軽く触る」という意味で、いまでも、「軽く触る」「撫でる」という意味がありますが、名詞になると、「ぶつこと」という意味にもなります。
ですから、その歩み寄りには、「やり取りをする範囲とルール」が必要ですし、また、相手のゆとりを奪っても良い方法、すなわち、「時間と場所とやることを中身とする、やり取りの約束」が必要なのです。
この「やり取りをする範囲とルール」、「時間と場所とやることを中身とする、やり取りの約束」が、子どもの育ちを保証し、儀式化を進めていくうえで、決定的に重要です。
最後にもう一つ、エリクソンの文書です。
一番大事にされた経験~「秋葉原事件」と赤塚不二夫
今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第10段落です。幼児後期の最後の段落です。それでは翻訳します。
ところが、筋立てを作る儀式化の要素は、人間のまさに芝居をする能力によって、人間の生活の中に登場するのですが、独特でどこにでもある形の儀式主義、すなわち、「他人のなりすまし」も人間の中に確立します。「他人のなりすまし」とは、現実と歴史の舞台で、生気のない生真面目さをもって、自分自身にとっても他の人々にとっても非常に危険な問題で、役割を演じます。この“ある「立場」のなりすまし”によって、それだけ才能もあるし人を楽しませる意味で、意識して芝居をする人のことを言うのではありません。それならば、舞台の中央で、あるいは、端で、時には場末で、名もなく、人間が自分自身を経験する上で必要なことは明らかです。赤ちゃんの頃、私どもが見てきたとおり、芽生えてきた<私>が、他者から集中的に世話をされる中で、このように一番大事にされることを経験します。この<私>が、子どもの頃の遊びの中で新しくされて、青年期のアイデンティティを我が物にしようとする闘いの中で他者と共有され、晩年になってからは自分自身のあらゆる立場によって肯定されます。自我理想は、他罰的な超自我とは異なり、自ら選択した自主性を良しと認めますし、理想的な簒奪やユートピアを体現するように思われる人々で、しかも、その代りに、他者の自主性も良しと認める力のある人々を(両親から政治家まで)理想化します。ところが、「自分は偉い」と思うことは、いわゆる「偉い人」を崇拝することと合わせて、どこまでも人のものを奪い取ることに道を開きます。これによって説明されるのは、人が信ずべき本物を追い求めて自分の不足を埋め合わせようとする努力は、自分の自発性と他者からの恵み、他者との競争と自己犠牲を真に統合することを必ず意味する、ということです。しかしながら、「『信ずべき本物』なんかないんだよ」と言われ続けると、子どもたちは(青年たちも)恥知らずの悪役を強迫的に引き受けざるを得ないのです。恥知らずの悪役の方が、名前のない役どころやひどくお定まりな役回りを引き受けるよりもましなのです。
これで、幼児後期の部分の翻訳は終了です。いかがでしたでしょうか?
ここで大事なことは「信ずべき本物(authenticity)」です。今日はそのことを考えてみたいと思います。
赤ちゃんの時に芽生えた<私>が、幼児後期以降に演じる役割が、「信ずべき本物」ではなく、ありきたりのものである時、エリクソンが言う「恥知らずの悪役」を演じざるを得なくなる。これは衝撃的なことではないですか?すぐに思い出すのが、「秋葉原事件」や「酒鬼薔薇事件」でしょう。この事件は、当時様々な議論を巻き起こしました。しかし、人間関係が希薄になった日本の社会への警告と受け取った人はいましたが、今日エリクソンが教えてくれたように、「年中か年長の子どものころから、「『信ずべき本物』なんかないんだよ」と言われ続けているからですよ」と教えてくれた人を、私は知りません。
この点で参考になるのは、唐突に思われるかもしれませんが、赤塚不二夫さんです。単なる「アル中」(差別用語だったら訂正します)と考える人もきっとおられると思います。なぜ参考になるのでしょうか? それは、赤塚不二夫さんが「本物の漫画家」になりたくて、手塚治虫さんのところに教えを乞いに行った時の話です。そのとき、手塚治虫さんは赤塚不二夫さんに対して「一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見なさい」と教えてくれたということです。それで赤塚さんはレコード屋さんに行って、「一流の音楽ってどういうものですか?」と訊いたら、「それなら、クラシックでしょう」ということになって、モーツアルトか何かを勧められたそうです。その後、赤塚不二夫さんはその教えを忠実に守ったのでした。
この手塚治虫さんの教え「一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見なさい」。これこそ、「信ずべき本物」でしょう。小さいころからそういうものに触れる、それが大事です。
しかしそれだけではありません。子どもにとって、もう一つ大事な「信ずべき本物」とは、温もりのある人間関係でしょう。その最初が、今日のところにも出てきた、「他者から集中的に世話をされる」関係でしょう。幼児前期以降は、他のことよりも子どもの気持ちに寄り添うことを大事にしてくれる、寛容な保育士や教員との関係がそれに続きます。これが何よりも子ともにとって「信ずべき本物」になることでしょう。
その「信ずべき本物」の関係にある親、保育士、教員などと、「一流のもの」を「共に見る」こと、それが何よりも大事なことを、今日エリクソンは教えてくれている、と私は考えます。
本日ここまで。
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