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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.83の,第2パラグラフから。 その前も,ご一緒に。
生きる指針にした≪私≫が生きている実感に従って自ら関わりを始めること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すようになっているから,≪私≫が生きている実感を出してはダメだぁと自分をいつも責める気持ち
≪私≫が生きている実感を生きる指針にするという目の前にある自分の壁から,腑に落ちる自分らしい不動の生き方に気付きますと,4歳5歳のその子どもは,次の舞台に直面します。次の舞台は次の分かれ道でもあります。自分が一個の人間として「生きている」ことを確信したので,次は,自分はどんなに心から優しい人になれるのかを見つける番です。そして,ここで,自分の生き方を,他ならない一番星に結びつけます。その子は,お父さんお母さんみたいに,とても強くて,とても美しくなりたいと願います。ただし,お父さんお母さんは,時には全く納得できないほど傷つけることもあるけれども。その子は,「お父さんお母さんと一心同体になります」し,神様の心から優しい御心がお父さんお母さんにとって,どんな意味があるのか,という物の見方と遊ぶのです。3つの力強い発達が,この4歳5歳の舞台では,子どもを自分の分かれ道に近づくのに,助けになりますし,役立ちます。(1)その子どもは,自由に,しかも,力強く「(聖書の神様の命が)ぐるっと一巡する」ことを身に付ける様になりますから,ずっと大きくて,その子にとっては,無限に光り輝く目標を立てることも身に付けます。(2)その子の「舌」で感じる体感は,自分が分かるところと,よく分からないたくさんのことを質問できるところとにピタッと手が届きます。そして,(3)おしゃべりしたり,動き回ったりできるから,自分がビックリせざるをえないたくさんのことが,「いろいろとイメージを抱いて,こうかな,ああかな,としているうちに」,自分が夢見てきたことや思い付いてきたこととピタッと一体にすることができます。それにもかかわらず,これら全てから,その子は,「決して打ち砕かれることなど出来ない不動の,自ら歓んで快く関わり出す関わり」を,互いに大切にし合いながらも,同時に,独立自尊でも居られる,気高くも,実感のある心の習慣のための,たった1つの岩盤にして,育つことになります。
こう申し上げますと,ここで問いたくなる御仁もおいでになるかもしれませんね。「私が生きている実感に従って,快く歓んで関わりを始める,決して壊されることのない心の習慣ができた,ということの判断基準は,いったい何でしょう?」と。ここでお話ししている全ての心の習慣に当てはまる,その判断基準と,同じです。1つの分かれ道は,様々な恐れ,すなわち,創造することに伴う不安と緊張が少なくとも伴いながら,自分自身がいっそう自由に繰り返しなれる,と見なされることです。というのも,その子は心も身体もやり取りができるほど「親らと共に育つ」と見なされるからです。その子は「いっそう自分らしく」なったように見えますし,いっそう愛らしく,いっそう自由にゆったりと構えて,自分の判断がいっそう賢くなっているように見えます(こういったことが,4歳5歳の舞台になります)。ほとんどの者は,以前のように,自分から関わりを始めるものです。その子はかなり過剰なエネルギーを歓んで手に入れていますから,失敗はすぐに忘れ,ほしいと思ったものは(多少のリスクがあっても)相変わらず,より善い目標がハッキリと見定めた努力によって,手に入れようとします。自ら関わりを始める道で,その子も親も,上手に次の別れ道に直面できます。
私どもは,2歳の終わりに近づいています。その時期に,歩くのは容易なこととなり,あるいは,力強いものになります。拙著によれば,1人の子どもは「歩くことができる」のは,ずっと前のことです。しかしながら,人品が発達する視点からは,1人の子どもが1人で人生を歩むためには,2人3人の助けを借りて,短期間の内に,大なり小なり,あの神様の命が一巡する,互いに大切にし合う,あの聖書の神様が統べ給う場を,満ち満ちたものにしなくてはなりません。2歳の子どもは,自分が主人公でいられる時空で,自分の化身になる1つの玩具を歩かせますし,走らせますが,それは,その子が「心の中に」気高い自分を感じている時ですし,自分がその玩具を歩かせていることは忘れて,その代わりに「自分の化身である玩具と共に」できることを発見できる時なんです。互いに大切にし合う場で自分を発見できて初めて,2歳の子の両脚は,自分が無意識に動かせるものになるわけで,外側にある,まだまだ当てにならない歩く部品になるんじゃあないんですね。互いに大切にし合う場で自分を発見して初めて,2歳の子は,自分が「今できそうな」ことを,自分が「今できると分かっている」ことに加えて,素晴らしい心眼で,発見するようになります。
振り返ってみることにしましょう。最初の通過点は,ホッとすることでしたね。あの聖書の神様を信頼する信頼は,息,消化,眠り,などの生きていく上で欠かせない働きが,与えられる食べ物や元気が,一貫していて,馴染みあるものになるように,(訳注:聖書の神様の命が)回っている経験に基づいているものですから,赤ちゃんが生きている実感が,まず自分の居場所をシッカリと体感し,その次に立ち上がることができるようになる,自由になる力に,人品の芳香を添えることになります。第2通過点は(2歳になってはじめて,通過できるものです),自分の居場所で安心していられる通過点であるだけではなくて,いわば,1つの素晴らしい業績です。この素晴らしい業績のおかげで,2歳3歳になる赤ちゃんは,選び取ったり,手放したり,あるいは,積み上げたり,上手にかわ(躱)したりすることを,よりハッキリと見極めるために,あるいは,よりハッキリと生きている実感に従って生きるために,次第に筋肉が使えるようになります。
第3通過点は,その4歳5歳の子どもは,人に頼らず元気に関わりを始めることができるようになる,ということによって,分かります。4歳5歳の子どもは,自由平等友愛を陽気に楽しんで生きている大人と同じように,自分は偉大だ,とみなすようになります。4歳5歳の子どもは,創造の大小の違い,特に男女の性差を比較し始めますし,あくなき好奇心を育てがちです。4歳5歳の子どもは,将来自分でもできそうな,聖書の神様の命が一巡する様々な役割をシッカリと一纏めにして納得しようとしますし,とにもかくにも,どんな役割が真似するに値するのかを見て分かろうとします。ど真ん中を空にすればするほど,4歳5歳の子どもは,聖書の神様の命が一巡する役割を,自分自身が生きている実感という生命力と1つにすることができます。目上に子どもの導きや特別に素敵な女性の導きがあれば,4歳5歳の子どもは,次第に,幼稚園,街角,内庭での,子どもの政治に入っていきます。4歳5歳の子どもの体感して分かることは,大いに遠慮などせずに,人に自分から関わり,元気でいることです。遠慮せずに人と自分から関わり,元気でいられるからこそ,その子どもは,自分の限界を超えて,将来の様々な可能性を開いていけるわけです。
この「遠慮(忖度)せずに自分から人に関わる生き方」は,この舞台の主の生き方の特色は,「1つの」様々な関わり方と様々な空想がある,ということです。この「遠慮(忖度)しない関わり方」には,身体をぶつけて,人の身体の中に,入り込むことも含まれます。すなわち,遠慮せずに話すことによって,人の耳と心に入り込みます。元気に動き回って,時空に遠慮(忖度)せずに,突っ込んで生きますし,あくなき好奇心で,未知な人や物事に,関わって生きます。「外の人や物事を仲間に入れる生き方」も,女の子にも男の子にも,創造されるように見えるのは,自分が,鷹揚で心から優しい聖書の神様やお母さんと一心同体になる経験の中です。
この舞台は,子どもが性差に関心を持ち,創造することへの内的促しを体感し,性差を生み出すものに夢中になり,関心を持ちすぎることもある舞台です。この「創造性」とは,もちろん,土台部分ですから,来るべき様々なものを約束する約束でしかありません。しかも,「創造性」であるとは,気づかれないのが普通です。特にこと細かく,ピンポイントで,様々なことを禁じることによって(「触ったら,チンチン,チョッキンだからね」),あるいは,特定の様々な習慣によって(たとえば,女の子グルーブと男の子グルーブに分かれて,イチャツク遊び),早すぎる手遊びを呼び起こさないようにするのならば,そこで体験するのは,一連の心魅せられる体験にほかなりません。この心魅せられる体験こそが,人間の持ち味の魁になります。この人間の持ち味の魁のことを,フロイトは,「封印」の時期と呼びましたが,それは,子どもの頃に性差が分かること(動物では子どものころに性差が分かるとすぐに性的に成熟しますでしょ)から大きく遅れて,身体が性的に成熟する,ということです。
この少年の性差の向きは,創造力,創造への内的促し,目的,意味に焦点付けされます。真っすぐ立つことが早々と起こる(柔軟に,あるいは,子どもが強烈に感じ取ることになる物や人に反応して)一方で,家族のみんなの関心が育っていくのは,女の子,男の子の創造性の中ですし,女の子らしい,あるいは,男の子らしい,陽気で楽しい関わりをしたいと願う気持ちの中であったり,あるいは,少なくとも,女の子らしさ,あるいは,男の子らしさを生み出す心の軌跡を辿る中なんです。次第に一つの場から別の場に移ることができるようになる4歳5歳の子どもは,いまここで偉大であることの中で,自分が主人公であることや誇りを感じますし,お父さんお母さんみたいに,「ほとんど」ピッタリくるほど,創造性の点で大きく劣っている,というわかりやすい事実の中で,一番重い逆回転を受けます。次第に一つの場から別の場に移ることができるようになる4歳5歳の子どもは,また,もう1つの逆回転も受け止めます。そう遠くない将来,お母さんと性的な関係を取るお父さんに自分はなるんだ,あるいは,お父さんと性的な関係をとるお母さんに自分はなるんだ,という事実の中で。この気づきと,この気付きに伴う不思議を畏れる畏れから生まれる最深欲求から,フロイトさんがいう「エディプス・コンプレックス」が生じてきます。
精神分析が大切にしている,ウソとゴマカシが一つもない正直な結論は,少年たちは,お母さんみたいな大人に,創造の場で最初に一体になりたいという願う願いを,くっ付ける,ということです。そのお母さんみたいな大人は,子どもの身体に元気をプレゼントしてくれます。精神分析が大切にしている,ウソとゴマカシのない正直な結論は,また,少年たちは,その母親みたいな大人の性の相手である人と,母親の取り合いをする仲間に育つ,ということです。小さな女の子は,聖書の神様の命が一巡する中では,自分のお父さんや,他の大切な男性に,くっつけて,お母さんにやきもちを焼くようになるのは,お母さんを心配させるかもしれない発達です。というのも,小さな女の子が,お母さんを心配させる発達をしますと,自分にピッタリ同じなお母さんに後ずさりしなくなるからですし,そうなれば,お母さんは,無意識に「天のお父様に,そして,この世のお父さんに相応しい」と感じられるから,とても魅力的で生意気だ,と言って,非難しますから。
小さな女の子たちは,4歳5歳の舞台で,1つの辛い時を体験するのは,4歳5歳の女の子たちは,心の中でも,人と関わる時でも,自分もいろいろと動き回ることが,男の子たちと対等に,願った通りに,増して来るし,お転婆娘になることも許されているのに,足りないことが1つあるのに気付くからです。あのペニスです。あのペニスがないと,誉と格の中に,心からのレディファーストがないことにも気づくからです。男の子は,この,目に見える,真っ直ぐに立つこともできる,以前からそれとよく分かる,心響かせてもらえるものがありますから,その心響かせてもらえるものに,大人の強さを夢見るその夢を,くっ付けますが,女の子のクリトリスは,男女が対等だと夢見る夢をくっつけるのにも,事欠きます。女の子はまだ,胸さえ,ないのです。その胸は,自分の将来を知らせてくれる手近な知らせを,聖書の言葉に従って伝えてくれるものになります。女の子のお母さんみたいになりたいと願う願いは,空想と子どもに心を向けることを楽しむ自由に至ります。たほうで,その母親が一家をコントロールするところでは,その男の子は,今度は,対等ではないと感じる心の習慣を育ててしまう場合もあります。というのも,対等でないと感じる心の習慣を育ててしまうその少年が,この4歳5歳の舞台で,学ぶことは,自分は遊びでも仕事でも上手にできても,家の主人公に決してなれないし,家の主人公はお母さんやお姉ちゃんたちだ,ということだからです。お母さんやお姉ちゃんたちは,実際に,自分の中に迷いがあるものですから,“あんたは(のろまで,オムツまでしている)嫌な奴じゃないけど,下なんだから」と感じさせることによって,弟に近づくものです。心からのファーストレディーじゃないと感じた女の子も,あんたは下なんだからと感じさせられた男の子も,「私は,僕は,いつか,お父さん,あるいは,お母さんみたいに,善くなれる,おそらく,お父さん,お母さんよりも,もっとマシになる,という光の約束を確信していることを,常識外れに高く評価している訳です。その女の子も,男の子も,男女は対等だとする優れた教えが少しずつ,時を置きつつ,繰り返し唱えられてきたことを,喜んでいます。食べていかなくてはならないことや,家計は一つであることから,男女の役割や,それぞれの持ち味やそれぞれのご褒美も,1つにまとまるところでは,性差に対して,幼いころに学んだ間違った教えは,もちろん,男女の役割の違いに関する社会通念に,容易に組み込まれてしまいます。
4歳5歳の舞台には,男女の基礎的な対人間の適切な振る舞い方を創造する中に,目上の人の中で「事を成す」ふるまい方,今の俗っぽい言葉で言えば「うまくやれてる」という振る舞い方が加わります。以前には見られなかった対人関係の中の振る舞い方で,うまくやれてる以上に,分かりやすく,強い言葉はありません。うまくやれてる,という言葉が示しているのは,競うことを楽しむこと,目標を目指し続けること,ことをなすことを心から喜ぶことです。うまくやれて男の子の場合は,真正面から強く関わることによって,「事を成す」人に強調点があります。うまくやれてる女の子の場合は,自分を魅力的に,可愛くすることによって,「事を成す」ことに変化します。うまくやれる子どもは,このように,「男らしく人の自ら関わる関わり方」と「女らしく自ら関わる関わり方」をするためになくてはならないものを育てることになります。すなわち,対人関係の中にある様々な目標を選んで,それに近づくために,忍耐することが育ちます。このように,4歳5歳の舞台は,人生への入口のための全てを不動にします。ただし,人生はまず,学びの人生でなくてはなりません。学びでは,子どもは,大粋なことや一番したいことは我慢したり,忘れたりしなくてはなりません。そして,余計なことは考えずに,個人の気持ちを交えないことに関心を持つことを学びます。読み書きそろばんもまた学びます。個人の気持ちを交えないことに関心を持つことを学ぶことによって,人格を変えてしまうことがよく起こります。この人格の変化が,うまくやれている子どもの品性にとって,あまりにも暴力的である,ということがままあります。この人格の変化は,教育の結果ということだけではなくて,心の指針まで変えてしまった結果,ということになります。この人格の変化は,生物的事実(性的に成熟するのが遅いこと)と,心理的事実(子どもの時期の様々な願いを抑え込むこと)に基づいています。というのも,不吉なエディプスの願いは,想像することが非常に増して来て,いわば,あちこち動き回れる力が増すことで悪くすると,オッカナイ相手を心密かに空想することになりがちだからです。オッカナイ相手を想像した結果,この心の最深部にある,「もうダメダァと自分を責める気持ち」の心の習慣を持ちがちになります。奇妙な感じがするのは,「もうダメダァと自分を責める気持ち」の心の習慣があると,ひとりびとりが,悪いことや,結局はとてもやれない,とというだけではなくて,生きているものにはとてもできない,と思うようなことを,しでかすことになります。
生きている実感を生きる指針にするための闘いは,最悪の場合,似た者同士の仲間たちをのけ者にすることに凝り固まることになりますから,「妬みに駆られた激しい怒り」になる場合が実に多いわけです。
エリクソンがここで指摘していることは,現実になる場合が,実によくあるわけですね。実におもろい。
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