2013-09-17 03:30:09 | エリクソンの発達臨床心理
新大陸に渡って、男も女も、新しい倫理を創りだしていたようですね。
今日は一歩進んで、「アメリカ人の生き方」についてです。
私事で恐縮ですが、私は昨年度、雨宮慧先生の「雨宮神父の土曜聖書講座(無料) 旧約聖書入門」に参加することができました。新宿信濃町駅前の「真正会館」で土曜の午後に行われていました。真正会館は建て替えが決まっていますので、この「真正会館」で行われ最後の講座に参加できたことは、誠にラッキーでした。
旧約聖書でも、新約聖書でも、「契約」という言葉をよく使いますでしょ。旧約でも、新約でも、その「約」ということばは、「契約」のことを指しているんですね。でもね、この「契約」という言葉は、私たちが普通日常的に使う言葉じゃないですね。「契約」と言ったら、特別に堅い感じがします。私どもが普通にやっている行為、たとえば、電車の切符を買うといった行為も、法的には「契約」だそうですが、それをことさら「契約」などと呼ぶことはまずありませんでしょ。
日常的に使う、と言ったら、それはむしろ、「約束」でしょ。雨宮先生は教えてくださいましたが、旧約聖書で使われている「契約」という言葉も、本当は「約束」だ、ということです。私はヘブライ語は分からないけれども、「やっぱりそうか」と思いました。「じゃぁなんで、『契約』という言葉を使ってるの?」と思われるかもしれませんね。それは、聖書の翻訳の歴史の中で、『契約』という言葉が定着しているので、今更変えられない、ということらしい。それだから困るんですね。きっと「先輩の顔を立てなくちゃならない」などの「人間的事情」が幅を利かせているんじゃないかしらね。ですから、山浦玄嗣さんのような翻訳が必要とされるんだと私は感じます。
旧約聖書で「契約」と訳されている元のヘブライ語、それが今日のタイトル「ヘセド(hesed)」なんですね。雨宮先生からいただいた資料によれば、「契約の背後には『友好的態度』がある。ここで『友好的態度』と訳されているヘブライ語(ヘセド)はもともと『二つの存在を結びつける愛と敬意』を意味しており、『誠実さ』という意味も含んでいる。だから、本能的な愛情の表れというよりは、自覚と意思を伴った慈愛を指す」(雨宮慧先生配布資料 「旧約聖書入門(2013/04/06) 神とアブラハムの間の二つの契約」p4)と言うんですね。
この時、「あっ、『≪約束≫と基づく遊び』でやってるのは、ヘセドだっ」と思いました。「ヘセド」と言ったら言い過ぎかもしれませんけれども、少なくとも、「人間版ヘセド」だとは思いました。
ですから、今の日本のように「神も仏もあるもんか」と言う時代に、「≪約束≫に基づく遊び」は、神様のような≪約束≫と神様を復活させよう、という、ばかばかしいほど大胆で、ばかばかしいほど愉快な取り組みだと、私は考えます。
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