エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ぬくもりの中で理解する、ということで、初めて人のことが分かってくる不思議

2014-06-05 05:35:31 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 おもちゃや機械、それから、虫や魚や動物をバラバラにするのは、バラバラにした物の仕組みを知ることになります。いのちのあるものをバラバラにするのは、「命の秘密」を知りたいからだ、というフロムの指摘は、新鮮ですね。p28下から5行目から。

 

 

 

 

 

 「命の秘密」を知る別の道は、≪真の関係≫です。≪真の関係≫とは、他の人を、イキイキ、ピチピチ、謙虚な気持ちで理解することなのです。この関係の中で私が理解したいと願う願いは、≪共にいる≫ことによって、収まります。相手と一体になるからこそ、私はあなたを知ることになり、自分自身を知ることにもなり、みんなを知ることになるのです。私が「冷たい眼で(客観的に)知る」ものはなぁーんにもないのです。私が知っているのは、どうすれば、人はイキイキ、ピチピチ、できるのか、ということに関することを知る唯一の方法、すなわち、一体化する経験によるのであって、自分たちが考ついた、「冷たい眼で知った(客観的な)知識」によるのではない、ということです。サドの人は、その秘密を知りたいという願いによって突き動かされていますが、私がかつてそうであったように、いまだ無知のままなのです。私はかつて、他の人の手足をバラバラにして知ろうとしていましたが、私がしてきたことと言えば、相手を台無しにすることでした。≪真の関係≫こそ、「弱い立場の人を良く見て忘れない」でいる唯一の方法なのです。一体になることおいて、≪真の関係≫は、私の問いに対する答えとなります。≪真の関係≫になり、私自身を与え、相手の人を謙虚な気持ちで理解することにおいて、私は自分自身に気付き、自分自身を発見し、私たち2人を見出し、人間のことが分かります。

 

 

 

 

 

 むかし、河合隼雄さんかNHkのインタヴューに応えて、カウンセリングの時の関係について、ハッキリと私どもに教えてくださったことがありましたね。そのとき、河合先生は「臨床心理学っていうのは、悩んでいる人の相手をするわけですから、客観的に診るなんて言うよりも、ホントにその人の悲しみとか喜びとかは、繋がっていかなきゃダメでしょ。そういう関係で一緒に悩んだり、一緒に悲しんだりしながら、こう、問題を見つけていく」ものだと言っておられました。

 今日のフロムは、まさに「知ること」は「共に見て知る」ことだということを言ったところですね。ですから、冷たい眼で客観的に見るのではない。それでは、人間のことが、いくらやっても結局分かりませんよ。そうじゃなくって、フロムや河合先生が教えてくださるように、「一体となって」、「繋がって」いくことで、相手のことを理解する、ということです。それは、温もりのある目で相手のことを見ることですし、謙虚な気持ちで理解することですから、その中で相手のことがよく分かるのです。すると、その場で見てきたように、理解することができるんです。実際に、ときどき、「覗き見」を疑われることがあります。「私のこと覗き見してましたか?」なんてね。別に覗き見の趣味はありませんし、実際覗き見しているわけではないのに、相手の人が、「覗き見したんじゃないのかな?」と感じるほど、相手のことが分かる。

 なぜでしょうね?

 それは、「知る」ということは、「見て知る」ことだからですし、その「見て知る」は一人でできることではなくって、必ず「共に見る」ことだからですね。ですから、「一体に」なったり、「繋がって」行ったりしないと、見えてきませんし、分かってこないのですね。実に不思議! 実に面白い!

 

 

 

 

 

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