日本人だって、全ての人が、ポテンシャルを戴いて、生まれてきます。それがない人は1人もいないんです。でも、これだけたくさんの人たちが、生き辛さを感じ、自分を確かにできずにいるのは、科学技術が示す社会の在り方(原発のない、クリーンエネルギーと、人々が助け合う社会のためにその技術を用いる、というような)と、宗教的、ないしは、政治的価値(人間皆兄弟、弱い立場の人やイジメられている人は助けるのが当たり前だ、と言う価値、など)がハッキリしないからです。パレーシアステスの持ち味は、このいずれか、出来れば、その両方をハッキリと話し言葉にする点にあります。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p74の第4パラグラフから。
この舞台での、やりたくてたまらない礼拝が、もちろん、ビックリしたり、ゴチャゴチャになったり、ムカムカしたりするのは、若者らが同じ年端の仲間らとやり取りする関わりを礼拝にしたいし、小さな仲間の集会を作りたいという最初の試みをする時に、あっちに行ったり、こっちに行ったりする時なんですね。でもね、若者らは、スポーツをするフィールドやコンサートホールで、あるいは、議事堂や礼拝するところで、行われる集会に参加したいんですね。こういったいろんな分野で、若者らは、価値を確かめたいと願っている訳です。ですから、やりたくてたまらない礼拝や形式が整った行事が生まれるん訳です。しかしながら、価値を確かめたいという願いが、全体主義が旗印の、形ばかり大事にする軍隊に、熱狂的に参加する羽目になっちゃうこともあります。すなわち、全体主義の世界の見方は、夢幻ですから、自分を新たにする力も在りませんし、世にもオゾマシイ破壊と破滅をもたらすことにもなります。
最近の、津波や、堤防の決壊も、地滑りも、噴火も、おぞましい破壊への警告と受け止めることが、できますね。憲法前文と憲法9条という「人類の英知」という名の堤防が決壊した後の、世にもオゾマシイ破壊、破滅を、予め、「小さな」形で、眼の前に見せてくれているのだ、と私は考えますね。
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