自己内対話は、結局≪最深欲求≫に応えること。
p15行目から。
お定まりの日常だけじゃぁ、チッポケな自分を超越し、他者との一致したい、という最深欲求に気付くことが出来ないので、自分が絶望していることを克服できたように感じるのは、お定まりの娯楽、ディズニー社などが作った音楽やデズニーランドのようなアミューズメント施設を、ただただ受け身で楽しんだ時だけ、ということになっちゃいます。さらには、新しいものを買ったり、それをまた別のものに買い替えたりして満足するときだけ、ということにもなりかねませんね。
自分の感覚、不思議や自然を感じる感じが弱くなるからなんですね。赤塚不二夫さんが生涯大事にした、手塚治虫さんの教え「漫画ばかり描いてちゃダメだよ。一流の音楽を聴きなさい。一流の芝居を見なさい。一流の映画を見なさい」は、一流の芸術から自分の感性を磨きなさいということでしょ。先日亡くなった高倉健さんも、感性を日々磨き、自分が感じない役はならない主義だったと言います。最深欲求に応え、感性を磨き続けるのは、1人の時間が必要なのね。
それができないと、デズニーランドに行ったときだけ、嵐のコンサートでハワイに行く時だけ、自分の絶望を、束の間忘れることができるかのように感じる、ということしかないんです。
もちろん、それはゴマカシ。
私なんぞは、そんなゴマカシに、時間とお金をつぎ込むことがもったいない。単なるケチかもわかりませんね。懐が寒いだけ? でもね、コートを着込んでもあたたかくならない時でも、最深欲求との対話で感じる温もりを感じる時の感動、その悦びを体験すれば、内側からポカポカしますよ。ただですしね。結局そこかよ、という声もあるけれども…。
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