イオンが、誰が母親かを知りたいわけの一つは、母親がアテネ人でないと、パレーシアの特権が与えられないからでしたね。今日はその続きです。ちょっとお久しぶりですが…。
イオンが民主主義と君主制(専制君主制)に対してなした、この枝葉の批判的描写は、パレーシアの議論に典型として思われがちです。なぜならば、ほぼ同種の批判が、その後、ソクラテスの口から行われたことを、初期のプラトンの著作とクセノフォンの著作から、分かるからです。実際、同様な批判を、後ほどソクラテスがしています。同様に、イオンが民主主義的で君主的な暮らしに対して行った批判的描写は、紀元前5世紀末から4世紀初めにかけて、アテネでの政治的生活において、「パレーシアの権利」をもつ個人の、生まれつきの性格なのです。イオンはこのように、パレーシアステスそのものです。すなわち、イオンが、民主主義にとっても君主制にとってもとても価値があるのは、イオンが民衆に対してだろうと、君主に対してだろうと、自分たちの暮らしの欠点が実際に何なのかを、ハッキリ示す勇気があるからです。イオンはパレーシアのできる人ですし、ささやかな周辺的な政治的批判をする時にも、また、後になってから、「自分の母親が誰かを知る必要があるのは、自分には『パレーシアの権利』が必要だからなのです」、とイオンが言った時にも、パレーシアができることを示すのです。なぜならば、パレーシアステスであることがイオンの本来の性格であるのは事実ですが、母親がアテネ人でなければ、生まれながらの「パレーシアの権利」を、法的にも、習慣の上でも、行使することができないのです。パレーシアはこのように、すべてのアテネ人の与えられているものでは必ずしもありませんで、家族と生まれによって与えられる特権なのです。そして、イオンは、生まれつき、パレーシアステスの人であると思われますが、それでも、同時に、自由にものをいう権利を奪われているのです。
イオンは根っからのパレーシアステスなのに、パレーシアの権利がありません。パレーシアは、特権だからです。イオンはどんなの苦しいか、想像できないほどでしょうね。
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