エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#生きている意味 と #顔と創造

2020-03-25 09:06:00 | エリクソンの発達臨床心理
 



 
#人類皆兄弟 #だんだん大人になる予定

 #真面目なことを陽気で楽しくやる #井上やすしさん #エリクソンの祈り 現世考: 山城博治さん・上原公子(ひろこ)さんと,共謀罪  上原公子(ひろこ)さん  自分......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。

    Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。

   p.49の第2パラグラフから。

 今朝は,p.51の,8行目から。

 

 

 そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分をのことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。自分から人に関われず、助けてももらえないのでなく,自分から人を大切にする関わりができて,それを遂げることができます自分だけ特別に見守られているのであって,感覚過敏になったり,無感覚になったりするんじゃない。中でも,試練を乗り越えて,生かされている実感が漲って生きるんであって,見て見ぬふりをされて,見捨てられるんじゃぁありません。これら全ての兆しは,あの生かされている実感が漲る意識の,朧げな始まりです。あの生かされている実感が漲る意識は,どの言葉でも,《私》と呼ぶようになりますし,あらゆる宗教では,神様から「とても善いよ」と言われる,いのちが一巡するど真ん中(訳注:救い主,キリスト)を求めることにもなります。ですからね,顔と顔を合わせることが,ルネ・スピッツやジョアン・エリクソンが指摘している様に,宗教的なイメージ(聖母マリアが首を傾げて、幼子のキリストと一心同体に成った光みたいに)を思い出させるものであるのならば,顔と顔を合わせることそのものが,聖書の神様を信頼する自分が創造される基になる,と言えますよね。聖書の神様を信頼するとは,唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みで,こころの中心軸にある本当の自分が「とても善い」と認められることを信頼することです。唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みは,人がカリスマ的な指導者を求める源にもなりますし,運命を左右することにもなります。

 2人の魂が一心同体に成る点から申し上げて,私が自明のこととと考えていることを申し上げれば,希望の根っこは,赤ちゃんの時期に,あ母さんを信頼する根源的信頼と,お母さんが当てにできない根源的不信の間で,2人が根源的な苦労をすることからしか生まれませんよ、ということなんです。それから,この苦労は,その後の苦労全てと同様に,生涯を通して繰り返し,自分を心から自由にすることになる,ということです。それじゃあ,ピアジェが言う「死」って,一体何なんでしょうね? 馴染めないことは根っから信頼できないこと,ソッポを向くお母さんの顔に身も凍る思いをすること,子どもを避けるお母さんやウソつきのお母さんを怖がったり,腹が煮えくり返るほど激しく怒ったりすること,それに,繰り返し生きている実感があって安心している,ということがなくて不安で不安でたまらない,って,一体何なんでしょうか?  スピッツは著作の中で早期に主張したのは,「8か月不安」でしたね,「8か月不安」とは,赤ちゃんが,見知らぬ人に「不安で眉をしかめたり」,「大泣きしたり」して応じることです。それに対して,私どもは「おバカさんね」と言って笑って,繰り返し赤ちゃんに元気・陽気を上げますでしょ。でもね,このように8か月の赤ちゃんが馴染めてない相手を愚かにも怖がることって,馴染めない相手に対する唯一の初体験ですし,それは不安と激しい怒りが混ざったもので,しかも,一生続いてしまいますし,様々な人を激しく怒ることに広がっていきますでしょ。それに,この激しい怒りが混ざった不安は,大人になったとき,大人になるから,馴染みになったことに見捨てられて,押しつぶされる力の犠牲になるかもしれないという不安になります。邪悪な眼を怖がり,心からの優しさがある聖書の神様の見守られることもなく,宇宙の中で一人ぼっちになるのを怖がる不安です。

 私ども臨床家が,あの「死」が始まるのは,ここだ,と体得的で分かって,「なるほど本当だねぇ」と思うのは,ここで申し上げたように,赤ちゃんが8か月不安になったときにお母さんから元気と陽気をあまりもらえないことから,本当の自分を自由に生かす(泳がせる)試練(訳注:本物の洗礼はこれ)に耐えるだけの元気と陽気が欠けた子どもに出会う時です。私ども臨床家が「死」と出会うのは,毎日毎日,毎時間毎時間,繰り返し元気と陽気を求めてくる心の病(訳注:発達トラウマ障害)に脅かされた子どもの患者に出会うんです。勇気をもって互いに大切にし合って,死んでしまわないように,大事な人を殺しちゃわないように,大事な人に殺されないように。このようにして身に染みて分かるのは,「生きている実感」は脆いということです。この「生きている実感」は,中心軸になる「自分」(ドイツ人は「お母さんの顔(眼差し)」と呼びます)から話す時,たくさん話す言葉の音色になります。この中心軸になる「自分」は,確かめた事実の合計以上に広い見方である生きている意味をもたらします。

 

 「生きている実感」は,「生きている意味」の源。

 「生きている実感」が意味を持つのは,中心軸になる「自分」が創造される時,「お母さんの顔」、「聖書の神様の顔」=キリストと顔を合わせた時です。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« #見直し と #対等で自由に | トップ | #小さな実感 と #トラウマ治療 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿