エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

エリクソンと礼拝に対する ???

2013-08-01 01:20:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 今の社会では、礼拝や儀式が危機に瀕していることをエリクソンは認めます。なぜ、礼拝や儀式は、今の社会で力を失ってしまっているのでしょうか?エリクソンは、それについて、のちの程答えてくれます。しかし、エリクソンは、「ヌミノースと分別による価値付けの源は、物語で表現したものや、美的に表現したしたものと合わせて、新たなスピリットから生まれうる」と言います。そして、「新たなスピリットは、全ての人類が、全ての人類としての(「人間を上下2つに分けるウソ」を信じない)自分を確かにする究極的な道を体現している」とも言います。いま、儀式化や儀式に力がないのは、エリクソンが言う、全ての人類としての自分を確かにする道を体現している新たなスピリットを、私どもが未だ見出していないからだ、と言えそうです。

 

 

 

 

 

 もうひとつの漸成説の表に関して、私の学生たちは、「こういった綺麗な一覧表を作ったのは全部、エリクソン自身を形だけでも安心させるためなんじゃないの?」と長い間思わなかったのでしょうか? 「特権階級の人だけがライフサイクルを全うする余裕があるってことじゃないのか? このような疑いを持つ人々は、多分、「エリクソンのいくつかの表は、人生を研究する際の大まかな手引ではあっても、その表は、誰も疑っていないことを否定するためにも使われるんじゃないの? つまり、いろんな舞台(発達段階)の上の、陽気で楽しい暮らしが、大人たちからなくなっちゃっている、という事実そのものによって、多くの大人たちが否定されているじゃないの? しかも、余裕が全くない、貧しい大人たちだけじゃあなくて、お金持ちの人たちも、あまりにガッチリゆとりがあるんで、かえってお金持ちは無力になっちゃってるし、お金がありすぎて、かえってお金持ちは息づまっちゃってるじゃない、という具合に、大人たちを否定するんじゃないの?」と言いますよね。さらに、大人たちがその子ども達に与えるゆとりに関しては、「そのゆとりは、結局、多くの人のために何の役に立ったのか? 役立つどころじゃなくて、そのゆとりは、発達しつつある子どもからゲームを取り上げて、しまいには、真剣な反抗でさえ無に帰させてしまったんじゃないの? 」と言うでしょう。

 

 

 

 

 数々の深刻な疑いが、実際にエリクソンに浴びせかけられていたことが、この部分からも分かります。エリクソンも楽じゃなかったでしょう。臨床経験から、こんなにきれいな分かりやすい一覧表を作ることが、どれだけ大変な臨床上の努力と、それを繰り返し知的に整理する努力が必要なのか、ちょっと想像できないくらいですが、彼の仕事は、こんなに大変な努力のたまものなのに、こんな非難をされていたなんて... しかし、エリクソンは「それでもまだ」と言う勇気と希望(Hope)を持っていたのでしょう。それはちょうど、マルティン・ルターや、マックス・ウェーバーが「それでもまだ、Dennoch デンノッホ」と言った時に、勇気と希望(Hope)を持っていたと、おんなじです。

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