エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#日常生活の礼拝 に対する #疑い #エリクソンのリアルで、#みずみずしく、#謙虚 であること

2013-07-31 01:56:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 第二章「ライフサイクルと礼拝」の第3節「人類を一つと見るのか、それとも、2つに分けて見るか と、礼拝」も、面白かったですね。礼拝について、エリクソンがまとめてくれたところが特に良かったです。日常生活の中にある礼拝は、日常生活の何気ない関わりを、やり取りのあるものにすることによって、お互いに相手の価値を認め合う関係パターンであり、それなしには、<私>が育たない基盤になるものであるのことでした。

 今日からは第2章の第5節「礼拝のやり直し(繰り返される礼拝)」に入ります。第4節を飛ばすのは、最初に(3月から4月にかけて)翻訳済みだからです。

 

 

 

  礼拝のやり直し(繰り返される礼拝

 

 しかし、いまやこの本の半ばを過ぎて、私の読者の方々の中には、礼拝礼拝の力を私が認めている点に、私の懐古趣味的な保守主義がある、と抗議をする人もいる、と私が耳にしないかですって? 礼拝や儀式が、今まで「本当に役立ってきた」のか? そして、現在、パーソナリティや人間関係に必要不可欠である、と私が本気で思っているのか? そして、このような「自然な」仕組みが社会的な動物達の中でなら、あるいは、未開であって、しかも、かなり伝統的な社会の中でなら、識別できるとしても、私がここで図表にしていることの、まさに核になるものは、今や絶望的な危機に瀕していると思われますし、もしかしたら、過密で、汚染が進み、工業化され、機械化された世界では、妥当性を失っているのかもしれません。仮に人類における礼拝が進化の過程で重要であるとしても、姿を消しつつあるいくつもの礼拝は、新種のデッチアゲの儀式に道を譲っているのではないのか?特にマスコミによって支配されているのではないのか?動物行動学や精神分析家の訓練しすぎた目にも、気付かれないのではないのか? といった疑問を私が避けて通れる,とでも言うのでしょうか? いいえ、私はそんなことはできません。私自身が以前にも申し上げましたように、ヌミノースと分別による価値付けの源は、ドラマ仕立てに表現したものや、美的に表現したしたものと合わせて、新たなスピリットから生まれうることは、確かなことです。その新たなスピリットは、全ての人類が、全ての人類としての(「人間を上下2つに分けるウソ」を信じない)自分を確かにする究極的な道を体現しているものです。なぜなら、私どもは、みんながみんな、いまどきで、とても流行ってはいても、非常に含みが深いフレーズ通りに、「温もりのある意識的な生き方(人間としての生き方)」が、必ずしも出来ていないからでしょうか?

 

 

 

 

 エリクソンは、なんと、リアルで、みずみずしく、しかも、謙虚なんだろうと思います。「儀式や礼拝なんぞは、いまどきの工業化された現代社会の中になんぞ、ありゃしない」という抗議や「礼拝は、パーソナリティの発達に本当に必要不可欠なものだなんて、あなた本気で考えてるの?」などと言う、疑問と言うよりも、疑いがエリクソンに直接・間接に投げかけられていたことが分かります。エリクソンだって、人の子、そんな抗議や疑いに接すれば、気を悪くすることもあっただろう、時には、無理解に落ち込んだりすることもあったに違いない、と勝手な想像を私は巡らせてしまいます。

 しかし、エリクソンは、希望(Hope)がありました。エリクソンは、すべての人類としての自分、1つの人類としての自分を確かにする道を見通していたからです。それば宮澤賢治が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言った心境に近いだろう、と想像します。その希望(Hope)に支えられているからこそ、エリクソンは、これだけリアルで、これだけみずみずしく、しかも、これだけ謙虚なのだ、と私は考えます。

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