エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

再生のための、自覚的一歩

2013-10-01 02:40:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 どんな人間関係でも、動物との関係でさえ、やり取りを失えば、必ず、(暴)力による支配関係が、ある時には露骨に(力づくで)、またある時には、コッソリと(巧妙に隠ぺいされて)、またある時には悪賢く(「大人の(悪)知恵で」知的に)、幅を利かせるのです。すると、不思議なことですが、支配されている者ばかりではなく、「支配している」はずの人さえもが、「生きているのに死んでいる」状態に陥るのです。支配しているはずの人が、たとえギラギラとしていても、そうなのです。いえ、ギラギラしているときにはいっそう、「生きているのに死んでいる」のです。

 

 

 

 

 

 そして、私どもは、私どもに積み木遊びをやってくれる子どもたちのおかげで、最善なものから最悪のものまでありとあらゆるシナリオを示すことができます。これらのシナリオが関係しあっているものとして見なくてはならないのは、儀式化と脱儀式化の問題が、国家規模の危機に妥当する場合です。「アメリカ人の夢」を素描し、その夢が歴史上一貫していたと主張した際に、この国もまた、実存的ジレンマのど真ん中に踏み込んでいる事実を見過ごすことは私どもにはできませんでした。その実存的ジレンマとは、他のもろもろの帝国も歴史上直面しなくてはならなかったことなのです。しかし、この国の歴史は、とても自覚的に、自己決定的であったので、折り紙付きの再生パターンが準備されているように思われます。その再生パターンとは、国家的な、あるいは、科学技術的な拡大の行き詰り1つの敗北とは認めず、アメリカ人のヴィジョンが広く妥当するものになるための、自覚的一歩として見直すことです

 

 

 

 

 

 これがアメリカ人の底力でしょうね。行き詰まり、暗礁に出くわしても、それを1つの敗北としてしまうのではなくて、さらに自分たちのヴィジョンが、いっそう普遍的に妥当するものに成長するための、自覚的一歩としてとらえ直すのです。

 これは、本田圭佑さんが、「先日のプロフェッショナル  仕事の流儀」で言っていたことと、まったく同じことですね。半月板損傷という、一年間を棒に振るような行き詰まり、ことによるとサッカー人生そのものを失いかねない暗礁を体験しながら、それを悲運、挫折としてしまうのではなく、その間「希望に満ち溢れていた」と言う本田さんは、この怪我を、(サッカーの?)神様から与えられた自分が成長するチャンスと自覚的にとらえ直すことができました。

 この両者に共通する“視点(見方)”が大事です。

 その後、実際に、本田さんは本当にその怪我を自分が成長するための自覚的一歩としたことは、日本がワールドカップ出場を決めたゴールキックが示していますよね。

 そうです。視点(見方)が出来事(現実)を生み出すのです。

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