一見攻撃的に見える行動も、それは、人との陽気で明るいやり取りを求めている行動である、これは臨床上非常に大事な視点なのですが、なかなか納得できない視点でもあるかもしれませんね。これを納得するためには、自分の中の子どもと“よくよく”対話することが必要だからです。
また、子どもが大人に陽気で明るいやり取りを求めて歩み寄り、大人が自分のゆとりを割いても、その子どもの求めに応じて、陽気で明るいやり取りをするためには、工夫が必要です。その一つが、時間・場所・やることを、子どもと大人が約束して、それを繰り返し繰り返し行う遊びです。
そこで、遊びの生育歴上の始まりに戻る際に重要なことは、あるいは、重要なことの一つは、過去という神話以上に、人間が抱える事情の中で、陽気で明るいことの脆さを、その力と共に理解することです。それは、一人の赤ちゃんとそのお母さんとの相性と、2人がやり取りをどの程度熱心に求めてきたのか、というパターンを調べるところから始めることです。この赤ちゃんの時期の経験が、私どもが見てきたように、やり取りの中で関わり合う、という根っこの経験と、やり取りをすることによって、陽気で明るいことに価値を認める、という根っこの経験を作り上げるのです。つまりそれは、一つのやり取りなのであって、人間がすぐに「どうしていいのか分からない」気持ちになりがちで、しかも、すぐに激しい怒りにさいなまれることにもなりやすい、ということを、子どもの時期に防いでくれるやり取りであると同時に、後年、その困惑と激しい怒りを和らげてくれるやり取りでもあるのです。
もちろん、動物にも魅力的な遊びがあるのも事実ですが、それはあくまで、どんな条件であれば、遊びをするゆとりがあるのか、相手を傷つけたりせず、また、相手の行動の自由を邪魔せずに、遊びはどこまでやっても許されるのか、ということが明確な秩序の中で行われていることなのです。激しい怒りが湧き上がってきたり、あるいは、激しい怒りの真似をしたりすれば、なだめるか、脅すかの身振りで反応が返ってきます。しかしながら、人間が赤ちゃんの時に、激しい怒りと怒りの抗議を本能的に表すことは、多くの場合、やり取りを切に求めるひとつのお願いであると、考えてもよいのです。実際、お互いに譲り合って、陽気で明るく受容してもらっている赤ちゃんには、どれだけ、不安と激しい怒りがいっぺんに良くなっているかが分かります。儀式化という人間の偉大な恵みが、いかに、このように極めて重要な、赤ちゃんとお母さんとの出会いに、形と見通しをもたらしてくれるのか、そして、そのようにして、本能的なやり取りの代わりを務めてくれるのか、そのことは、この本の第二章で詳しく議論することにしましょう。
やり取りがどれほど重要なのか、強調しても強調しきれません。臨床で最も大事な視点は、やり取りがどれほどスムースにできるのかどうか、という点にある、と言っても過言ではないほどです。それは、やり取りの中で関わり合う、陽気で明るいことの価値をやり取りによって認める、という2つの根っこの経験を、やり取りをすることがプレゼントしてくれるからです。逆に申し上げれば、それがないと、この2つの根っこの経験をすることができません。ですから、やりとりがないと、「どうしていいのか分からない」気持ちか、「人を殺したい」と思うほどの激しい怒り(あるいは、この両方)が、心の根っこに、通奏低音として、ずっと残ります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます