子どもの時期が厳しく苛酷な時期になりやすいことを意識して、子どもと関わることが大事であることが分かりました。また、遊びの目的が、やり取りをするためであることが先取りして明記いたしました。
今日は「攻撃性」の賜物と、「あんた、邪魔なのよ」について、です。
一つの根源的で、ほぼ無邪気な「攻撃力」は、ピチピチしている活動に生気をあたえるものですが、またそのようにして、陽気で明るいあらゆる活動にも、生気を与えるものです。攻撃力は、成長している生物が、この世に存在する、その実存に単純に属しています。aggredere(「攻撃」を意味するラテン語)の、まず第一の意味は、楽しく陽気なやり取りを求めて、物や人に歩み寄ることです。ただし、その時、相手のゆとりを邪魔することになるかもしれませんが、意図においても、感情においても、敵対する気持ちはないのです。しかし、攻撃力を「ほぼ無邪気」であると呼んだのは、やり取りによって人のゆとりを邪魔すると、心の中では、欲求不満と激しい怒り、恥と「自分は悪い」という気持ちをすぐに経験することになるからです。というのも、個人が成長し発達するためには、ゆとりが必要なのに、最初から、その文化の仕来りを、自分の行動に取り入れたり、自分の良心に当てはめたりすることによって、自分のad-gression、つなわち、自分が物や人に歩み寄ることを、制限するようにならなくてはならないのも、人間の実存の根源的な事実です。その文化の仕来りは、性質上、動物の本能に組み込まれたものではないので、やり取りをする範囲とルールも決めなくてはなりません。それに、その仕来りは、ある種のゆとりを約束する、世界に対する全体的な見方を、人のゆとりを奪い取ることを許す方法と一緒に、すべての人に提供しなくてはなりません。
ここは臨床上、極めて重要で、実践的なところなのです。
ひとつは、「攻撃的」な時ほど、その人は攻撃され否定されることはないからです。エリクソンがラテン語から説き起こしている通り、「攻撃」は本来、物や人に歩み寄ることなのです。その歩み寄りは、その相手とのやり取りを求めてのことですが、相手のゆとりを奪うことにもなりますから、受け入れられる時ばかりではありません。「あんた、邪魔なのよ」などと言われることだって、必ずあります。歩み寄っても、受け入れられないことが多いと、その歩み寄りに次第に力が入ってしまいます。その力が入りすぎた歩み寄りad-gressionこそが、「攻撃」に見えるのです。それは英語のstrokeという言葉にもよく表れています。strokeは、元々「軽く触る」という意味で、いまでも、「軽く触る」「撫でる」という意味がありますが、名詞になると、「ぶつこと」という意味にもなります。
ですから、その歩み寄りには、「やり取りをする範囲とルール」が必要ですし、また、相手のゆとりを奪っても良い方法、すなわち、「時間と場所とやることを中身とする、やり取りの約束」が必要なのです。
この「やり取りをする範囲とルール」、「時間と場所とやることを中身とする、やり取りの約束」が、子どもの育ちを保証し、儀式化を進めていくうえで、決定的に重要です。
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